当地を旧東海道が通っていたと云われても、俄かには信じがたいが、和銅4年(711)山城国岡田駅、伊賀国新居駅などが設置され、加茂・笠置・大河原の各村を経て、当地に入り新居村(現伊賀市新居)に出る道が開発されたが、これが旧東海道であった。 島ヶ原宿は山城国から伊賀国へ入る重要な関門であった。それは木津川水運を通じて淀川と更に外洋と繋がり、塩・魚の産地につながると共に、下流の京都・大坂という二大都市にも通じていた。 江戸時代には奈良道(大和街道)の島ヶ原宿として栄えていた。奈良道(大和街道)は東海道関宿の西追分から分かれて加太越で木津川に沿って西進し、島ヶ原・大河原・笠置から奈良を経て生駒連山の暗峠を通って、河内松原に至る幕府の脇往還であった。 島ヶ原宿が何時頃から開かれていたかは定かでないが、出土品から鎌倉道がこの辺りを通っていたと思われ、中世末には既に島ヶ原宿として機能してようだ。 島ヶ原村の江戸時代ははじめ上野藩領、慶長13年(1608)からは津藩領。中屋・大道・中村・奥村の各地区を上島原または島原上村、川南・町・山菅の各地区を下島原または島原下村と通称していた。寛延年間()の家数・人数は上島原287・1,243、下島原210・889であった。 町並は南西から北東方向に500m、本陣・問屋のほか旅籠が10軒ほどあり、宿は主に大和の小大名と河内・北大和などからの参宮道として利用されていた。 明治に入ってからは、城下町上野と木津川の河港笠置との間は、牛馬の背によって物資を運んでいた。大和街道沿いの当地は上野・笠置の中間に位置し、その運搬に従事するものが多く、農閑期の街道稼ぎで生計を立てるものが約8割にも達していた。 今町並を歩くと、街道筋だったと思われる建物は少なくなっているが、江戸末期に建った旧本陣が残っていたり、街道に面して建つ平入りの商家の伝統的な建物があったり、道標が立っていたりと、少なくなって居るが旧宿場だった面影が残っている。 三重県の歴史散歩 山川出版社 三重県高等学校社会科研究会 1994年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
島ヶ原の町並 |
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島ヶ原の町並 左側の建物が江戸末期に建てられた旧島ヶ原岩佐本陣 |
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