大野は愛知県東部の鳳来寺山の南麓に位置し、江戸時代には秋葉街道、別所街道の交わった交通の要衝として賑わった宿場町であった。 この地では、天正3年(1575)長篠の戦いが行われたことは有名で、岡崎の徳川家康と来援の織田信長は鉄砲隊と集団戦術で、騎馬隊の武田信玄の子勝頼の軍団を討った。 江戸時代賑わった秋葉街道とは、遠江国(静岡県)の秋葉山(秋葉神社)に通じる街道の総称で、信州からのもの、掛川から森を通ったもの、鳳来山からのもの等、多くの道筋が秋葉街道と呼ばれていた。 ここ大野を通っていた秋葉街道は、大宝2年(702)創建された古刹鳳来寺と、秋葉の火祭りで知られる秋葉神社を結ぶ信仰の道であり、鳳来寺山ー大野ー細川ー巣山ー大平ー川宇連ー神沢ー熊ー石打ー雲名ー戸倉ー秋葉山と今では通れないような道筋を通っていた。 また別所街道とは豊橋から別所(現東栄町)を結ぶ街道で、飯田まで通じていた。 大野はその二つの街道の交わった宿場町で、大いに賑わっていたようで、天保年間(1830〜44)の大野の地図には現在の町区の上半分が既に形成されていた。 江戸時代は幕府領のままであった。江戸時代の資料が殆どない為、町の様子が判らないが発達した町場であったため、遠く遠州からも買物に来ていたほど賑わっていたようだ。 明治24年の戸数219軒・人数1,145人であった。明治時代には旅館・料理屋が多く、呉服・雑貨・食品の店もあった(鳳来町誌)。 この地では明治中期頃から養蚕が盛んになり、大野はその集散地としても発展し、明治末には製糸工場が4ヶ所にもなっていた。 国道151号線(別所街道)がバイパスになって町並の外側を通ったので、今でもかっての宿場町の面影を色濃く残している。緩やかに曲がった町並に沿って、間口の広い平入りの商家や旅籠風の建物が連なる。切り妻造り中2階建・千本格子の鄙びた感じの町並は、よくぞ残っていてくれたと感謝の気持ちで眺められた。 この様な町並には、無住になった家屋が多く見られるのだが、ここ大野はそのような家を見かけなかったように思う。何時までもこの町並が残っていますようにと願いながら、次の目的地へと車を走らせた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 愛知県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 歴史遺産 日本の町並み108選を歩く 講談社 吉田桂二 2001年 |
大野字上野の町並 |
大野字上野の町並 |
大野字上野の町並 |
大野字上野の町並 |
大野字上野の旅館 |
大野字中野の町並 |
大野字中野の町並 |
大野字下野の町並 |