知多半島中部東側の半田市は黒板壁の蔵の町として名が知られている。この地ではかなり早い時期から酒造が始まり、江戸中期から明治にかけて大きく発展した醸造業の蔵である。 半田村では元禄10年(1697)には酒造家17軒・酒造米高515石ほどであったが、藩が酒造を奨励したため、文久2年(1862)には酒造家75軒・石高4万8,313石と大幅に増えている。 半田港から江戸へ多くの酒が積み出され、寛政元年(1789)には江戸へ酒を送る酒造家は37軒を数えた。 半田村は江戸期を通じて尾張藩領で鳴海代官支配であった。寛文末年の「寛文覚書」によると家数341・人数1,842である。天保12年(1841)の村絵図では集落は山よりで農村地帯の上半田と、港町から発展し商家や蔵が軒を並べる下半田に分かれ、下半田は東浦街道沿いに町並みが発達していた。 町の発展を支えたのが醸造業で、酒・味噌・醤油とともに製酢業がある。増倉屋と称した酒造家の中埜又左衛門が文化8年(1811)養子角四郎に酢屋勘治郎の名で酢造経営させたのが始まりで、幕末にかけて江戸の握り鮨の普及と結びついて成長した中埜酢店は、今日の全国展開商品としてミツカン酢の基礎が作られた。 明治に入り酒造工場が江戸期から減少傾向をたどると、味噌・醤油・食酢の生産が増加してきた。中埜又左衛門は明治20年からビールの醸造にかかり、明治29年丸三麦酒会社を創立し、カブトビールの銘柄で大々的に販売した。 今、半田の町を歩くと、町中のあちこちに黒板塀・黒板壁の蔵や民家が点在する。蔵の殆どはミッカン酢を始めとする、造酢メーカーの工場であるが、酒造工場の酒蔵や醤油工場の蔵もあり、住宅でも黒板壁を用いている家屋があった。半田の黒板張りは伊勢河崎などに見られるものと同じ、下見板張りを細い木(押ぶち)で張りつけた外囲いで、魚油と油煙(煤)を混ぜた防腐剤を塗ったものである。 造酢工場の近くでは酢の臭い、酒造工場の近くではお酒の臭い、醤油工場の近くではモロミの臭いと、醸造業の盛んな土地柄町中あちこちでいろんな臭いに出くわす町である。 愛知県の歴史散歩上 山川出版社 愛知県高等学校郷土史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 愛知県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
半田運河越にみる中埜酒造の酒蔵 |
東雲町の造酢屋(キッコウトミ株)の建物 |
中村町の中埜酢店(ミッカン酢) |
東天王町のキッコウトミ株工場 |
天王町の黒板壁の民家 |
北末広町の黒板塀や黒板壁の民家 |