知多半島中央部北寄りの東海岸に位置する。慶長16年(1611)以来尾張藩成瀬氏の給地であったが、元禄6年(1693)いったん蔵入り地となり、文政9年(1826)再び成瀬氏の給地となっている。 「寛文覚書」には家数250・人数1,997とあり、「徇行記」では家数696・人数3,270とある。 「尾張名所図会」には海浜に沿った家並みと港の様子を「当所は船着き場にして千あまりの家の漁村で、繁盛している地、豪商も少なからず、眺望もよくて、たぐいなき景勝の地」と記している。 亀崎村は尾張藩の御用船を度々命じられている。天保11年(1840)から元治元年(1864)まで16艘の亀崎村船が米・材木を江戸に輸送している。漁業は近世初期から伊豆の打瀬網漁法が尾張・三河の中で最も早く亀崎に伝えられて明治末まで盛んに行われた。なかでも海老漁は盛んで、享保7年(1722)尾張藩から幕府へ献上するための神前海老の献納を命ぜられ、これが海老漁の特権付与の始まりといわれている。 酒造業は19世紀に入って盛んとなり、文久2年(1862)には酒造者21人を数えるまでになった。同じ時期に木綿栽培も普及し、綿布が江戸方面に多く積み出されていた。 明治に入ると伝統産業の酒造業は徐々に衰え、漁業面でも漁獲量は減少していった。 一方、綿織物業が台頭し、明治27年知多郡木綿晒業組合が結成されて活況だったが、昭和10年代の産業統制により転廃業を余儀なくされていった。 今、古い町並みは旧師崎街道に沿って展開していた。北東部の亀崎1丁目から南西に進む旧師崎街道に沿って2丁目・3丁目とほぼ10丁目まで続く町並みである。旧師崎街道に沿っては漁村や漁師町には見えず、街道筋の町並みであるが、一歩路地に入ると漁村だったと思われる家並みや町並みの風情が各所に展開している。酒造業で栄えた町だが今では一軒の造り酒屋があるのみだった。旧街道に沿った町並みは2階建ての切り妻造り平入りの町並みだった。 愛知県の歴史散歩上下 山川出版社 愛知県高等学校郷土史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |
亀崎町2丁目の町並み |
亀崎町2丁目の町並み |
亀崎町3丁目の町並み |
亀崎町3丁目の町並み |
亀崎町5丁目の町並み |
亀崎町5丁目の町並み |