東海道関宿から津へ通じる伊勢別街道の沿いの椋本は、近世初頭から中世以来の楠原の宿に替わって参宮道の宿場町として問屋場・旅籠・茶店などできて賑わっていた。旅籠の数は幕末には20数軒を数え、その中の一つ角屋は現在もその当時の面影を残し、軒先に各地の参宮講の講社札を多数掲げて現役で営業されている。 慶長13年(1608)藤堂高虎が津藩に入部し、椋本は津藩領となりそのまま明治を向えている。 宝暦年間(1751〜64)頃の「新撰伊勢道中細見記」によると茶屋や宿屋が多いと記している。寛延年間(1748〜50)の家数273・人数1,160であった。宿場の常として度々の火災に見舞われ、宿の中心地中町と西町の間に防火のために道路を屈曲させたり、村の両入口の路傍には疫病除けのための仁王碑が残っていた。 関と津の中間の宿場で繁栄していたが、明治24年関西鉄道が亀山〜一身田間に開通したため大打撃を受けて衰退し、地方的な商業地となってしまった。 今も防火のために屈曲させた道路はそのまま残り、伝統的な様式の家屋が連なり、昔の面影を色濃く残した町並が残っていた。 三重県の歴史散歩 山川出版社 三重県高等学校社会科研究会 1994年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
江戸時代から続く旅館の角屋 |
椋本の町並 |
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