二見は伊勢神宮と興玉神社・夫婦岩を背後にもった地で、これらへの参拝者と入津地として江と今一色があった。 江戸時代の江村は最初、鳥羽藩領であったが寛永10年(1633)からは伊勢神宮内宮領になった。寛永20年(1643)の内外宮領図の裏書によれば、当村の家数114軒・人数524となっている。天保初年頃(1830)の家数は104軒で、産物に良質の松材があった。 「勢陽雑記」では二見浦・夫婦岩を賞し、興玉神社に詣でる人々が増えるにつれ、当地に茶屋や旅籠屋が栄え茶屋と称されるようになった、と記されているように、江村のうち茶屋や旅籠屋があった辺りを茶屋と云うようになったようだ。 地震などで港湾機能が失われる前は、江は港町で廻船業が行われていた。享保17年(1732)には江村には船主3人、船4艘、今一色にも船主5人、船5艘があって、大坂・江戸への廻船に従事していた。 また今一色から、立石浜・立石崎に至る約3.8kmを二見浦というが、狭義には茶屋の海岸を二見浦というのが一般的のようだ。 二見浦の海岸に、日本最初の海水浴場との案内板が立っていた。日本最初かどうかは兎も角、二見浦は古くから参詣者・神宮の神主・住民らが潮水に浴して心身を清める「みそぎ場」であった。明治になって海水に浴することが健康に適していることが知られ、冷浴場を立石浜に定めた。さらに隣地に温浴場が設けられ、浴客が増えてきたので松林を開き旅館が多く建てられた。明治39年には正式に海水浴場をして指定され、観光地二見の基礎となり、参宮線の開通により更に来遊者が多くなり海水浴場としても発展していった。 今、当地を訪ねると、小学生の修学旅行の団体が多く、バスガイドに案内された、トレパン姿のちびっ子が賑やかに走り回っていた。みやげ物屋でも、小学生相手の100円ショップならぬ、100円の土産物が多く、殆どの店は夕方から店を開くようであった。 三重県の歴史散歩 山川出版社 三重県高等学校社会科研究会 1994年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1938年 |
江(通称茶屋)の町並 |
江(通称茶屋)の町並 |
江(通称茶屋)の町並 |
江(通称茶屋)の町並 |
江(通称茶屋)の町並 |
江(通称茶屋)の町並 |
江(通称茶屋)の町並 |
江(通称茶屋)にある賓日館 |