足助町の町並み 
田町・新町・本町・西町
地図


本町の町並み(妻入りの町並み)
  愛知県の中央部、豊田市の東側に足助町は位置し、紅葉の香嵐渓がある町である。
巴川の支流、足助川の左岸(西町)から右岸(新町・本町・田町・新田町)にかけての約2kmの街道沿いに、古い伝統的な町並みが連なる。
三河から伊那谷を通って信州へ至る道は、伊那街道と呼ばれ、江戸時代にはこの伊那街道は中山道の脇街道として栄え、長野の善光寺詣りをするものが多く通ったので、善光寺街道とも呼ばれた。伊那街道は中馬といわれる物資輸送の馬が多く往来し、中馬街道とも呼ばれた。
この街道に中馬が頻繁に通った理由は、中山道が五街道の一つとして、大名の参勤交代などの通行のため規制が厳しく、物資の輸送には面倒なことが多過ぎたからである。この街道で運ばれた物資の中で、最も重要なものが塩である。特に伊那地方の人々にとって、三河からもたらされた塩は日常生活で絶対に欠くことのできない必要物資であった。このためこの街道は「塩の道」とも呼ばれた。塩の中継地として足助の果たした役割は大きい。
知多湾沿いや渥美湾沿いで焼き出された三河塩は、海上から矢作川をさかのぼり、さらに支流の巴川に入って平古渡場(豊田市岩倉町)で陸揚げされ、馬で足助の塩問屋へ運ばれた。足助からの中馬街道は険しい山越えの道であるので、まちまちに詰められていた塩俵の重量を統一するために、俵に足で踏みしめて詰め直す「塩ふみ」が行われ、「足助塩」とか「足助直し」と呼ばれた。江戸時代の後半の天保年間(1830〜44)には、足助の町に塩問屋が14軒あったという。
足助の町の原形がいつ頃形成されたかは不明であるが、文正元年(1466)に立派な足助八幡宮本殿(国の重要文化財)が再建されていることは、室町時代中頃には、足助の町にかなりの経済力があったと思われる。足助城主として戦国時代この地方を領有していたのは鈴木氏で、足助城を本拠としていた。
天正18年(1590)鈴木氏は、徳川家康の関東入国に従い足助城を去り、以後足助城が再び城として使用されることはなかった。江戸時代のはじめは、幕府領であったが、その後、領主の交代がしばしばあり、天和元年(1681)に本多淡路守忠周が、足助本多家の初代として、足助村に陣屋を置き明治維新まで、本多家の足助支配が続いた。
寛永6年(1629)の検地帳によると、東町・西町・田町・新町の4町とその他から成っていて、名請人総数249人となっている。
元録年間(1688〜1704)頃になると、足助には宿場的要素に加えて、塩問屋を始め数々の商家が軒を連ね、商品流通の活発化により商業の中心地的性格も強まり、在郷町として発展するようになり、御用商人も出現した。
西町は足助の玄関口であった。昔の旅篭の面影を残す玉田屋旅館が残っていて、今も営業を続けている。西町には明治、大正期に宿屋が七軒あり、足助で宿場の面影を最も色濃く残す町並みである。
新町の町並みの特徴は、比較的妻入りの町家が多いことである。そして妻入りの家も殆どが白漆喰塗り込め造りである。板壁を張りめぐらした妻入りの家、平屋で平入りの家などが、景観に変化を与えている。新町のマンリン小路は黒板張りと白い漆喰のコントラストが見事。小路の両側には黒板張りと白漆喰壁の土蔵が迫るように建ち、独特な雰囲気を醸し出す小路。
本町は江戸時代には足助の中心地として、大きな商家が集まっており、平入りの大きな町家が多い。大きな屋敷を持つ紙屋 鈴木家は、7棟の土蔵を持つ商家である。主屋は平屋建、切り妻造り平入り、桟瓦葺、格子、格子戸。また、家の形式の多彩なことも本町の特徴である。軒の低い平屋、中二階、本二階、妻入り、平入りなどの家が並んでいて、建築年代もさまざまで、古い家も多い。
田町は西町、本町とともに古くから形成された町である。町家も建築年代の古いものが残されているが、商店が多く看板などによって隠されているものが多い。なお、田町の町家は2階建の多いことが特徴だ。        
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参考文献 
  新三州足助  足助町観光協会  平成8年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  愛知県の歴史散歩下  山川出版社  愛知県高等学校郷土史研究会  1996年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
別画像

田町の町並み

マンリン小路

新町の町並み

足助川岸の景観

本町の町並み

田町の町並み
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