善通寺市は空海が生まれ育った地として、空海にまつわる話や伝説が多く残り、空海創建の寺院も多いところである。善通寺も空海創建とも父の田交(善通)の建立説などがある。 古代・中世とも善通寺などの寺院を格として栄えていた所で、鎌倉期の善通寺は、後嵯峨・亀山・後宇多各上皇の尊崇を受け、寺領も拡大して隆盛を極めた。 しかし、永禄元年(1558)阿波の三好氏と伊予の香川氏の天霧城での戦いが和解となり、善通寺に本陣を置いていた三好氏が引き上げる時の失火により、善通寺の堂塔伽藍がことごとく焼けてしまった。 近世には天正15年(1587)生駒親正領を経て、寛永19年(1642)から、高松藩と丸亀藩に分れ、さらに丸亀藩から多度津藩に分けらてた。そして今回訪ねた辺りは丸亀藩領となった。 寺領を失い堂塔を焼失した善通寺も、生駒氏、丸亀藩京極氏の援助により復興し、門前町として復興した。そして金毘羅への街道の一つ多度津街道は今回訪ねた所を南北に通っていて、当時の街道沿いは茶屋などが並んだと言う。元禄11年(1698)の家数・人数は善通寺村では257・1316、上吉田村では79・489であった。 金毘羅参詣者の往来が盛んになったことから、門前町も発展していったと思われる。明治初年の善通寺村絵図では赤門筋(現在の東門から延びる中心商店街)には79戸、南大門筋には83戸の家数が記されている。 明治29年に四国を管区とする第11師団司令部が善通寺村に置かれ、その後騎兵隊・砲兵隊・工営隊などが置かれ善通寺は従来の門前町に加えて軍隊町の様相を持つようになった。 今回訪ねたこの辺りに金毘羅への道の旧多度津街道が通っている筈と探したがなかなか見つからない。市役所の観光課で聞いてやっと解ったが、今では細い路地になっていて、とても表通りとは言えず、殆どの家の裏口になっていた。この旧街道に沿っての町並を一番期待して訪ねたのだが、全く肩透かしで大きな通りの本郷通り・中通り・片原町通りに面して僅かばかりの伝統的な家屋が残っていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 香川県の地名 平凡社 下中 弘 1989 香川県の歴史散歩 山川出版社 香川県歴史散歩編纂委員会 1996 |
上吉田町の町並み |
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