八幡浜市は佐田岬半島の基部南側に位置し、江戸時代から昭和初期にかけては四国の西玄関と云われるほど交易の盛んなところで、伊予の大阪とも言われていた。 江戸時代を通じて宇和島藩領。 寛文年間(1661〜73)の「西海巡見志」によると、高札場があり「湊あり、何風にもよし、百石以上の船八十艘かかる」とあり、家数99軒とある。宝永3年(1706)の家数88・人数662・鰯網1帖・鮗網1帖・荷船艘・網船2艘・小船22艘。宝暦7年(1757)の家数111・人数708・鰯網1帖・荷船3艘・網船2艘・小船18艘とある。 このことより江戸時代前期の八幡浜浦は漁業と海運業に依存する街村であったと思われる。 そして江戸時代も後期の宝暦7年(1757)頃から港の整備が始まり、造船業も興り、八幡浜浦・向灘浦と古くからの在町の矢野町を中核とする八幡浜湊が、四国・九州方面への海運基地・商港としての歩みを始める。物産の集散地となり商港として発展していった。 安政年間(1854〜60)以降は藩の長崎貿易の基地となり、当地の豪商高橋長平(廉屋かどや)は持ち船で豊後国佐賀関及び大坂方面との海運業を開いた。当地から櫨・蝋・干鰯・寒天・和紙などを海運と陸路により長崎に運び、長崎から大坂へは天竺木綿・更紗・毛朱子・唐縮緬などを運び、大坂からは綿糸・砂糖・ガラス・雑貨などを運んで八幡浜に帰り交易した。そして八幡浜浦は港として町場化が進み、商業地として発展した。 明治20年頃から大正初期には本町・田中町・船場通りを中心に呉服・綿糸・綿布・薬種などおよそ40の卸商が軒を連ねた。 一方、商業が発展するにつれて、埋め立てによる市街地の拡大が求められ、江戸期以来西方・八幡浜湾頭へ延びていった。明治6年から八幡浜商会により、現在の新町・港町の一帯が、その後も明治・大正・昭和と埋め立てが進み、商店街も本町・田中町・矢野町から新町へ移道した。明治期の埋め立ては大商人によるもので、その屋号が今日の大黒町・近江屋町などの町名として残っている。 現在の八幡浜市街の約2/3は埋め立てによってできた土地である。 古い町並みは市街地の中心部浜之町・新栄町・本町辺りから港町・大黒町・旭町などの埋め立て地まで、広い面積にわたって見られる。平入り・妻入り・中2階建て・2階建てなどと混在しているが、伝統的な様式の家屋は漆喰塗込めの家屋が多い。中には千本格子を残した家も見られた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 愛媛県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 愛媛県の歴史散歩 山川出版社 愛媛県高等学校教育研究会 1996年 |
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大黒町の町並み |
大黒町の町並み |
大黒町の町並み |
大黒町の町並み |
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