八幡浜市保内町川之石は佐田岬半島の基部南側宇和海側に位置し、農漁業の町として発展してきた。江戸時代を通じて宇和島藩領。 寛文13年(1673)〜寛保3年(1743)には百姓数164人のうち本百姓17人・半百姓110人・四半百姓36人とあるから貧農層が多かった。「大成郡録」によると宝永3年(1706)の家数231・人数1,528・牛33・馬48・荷船5艘・網船18艘・小船114艘とあり、50年後の宝暦7年(1757)には家数336・人数1,920・牛8・馬1・鰯網9帖・鮗網1帖・鮪網1帖・荷船3艘・網船19艘・小船103艘となっていることから見ると、村民は農漁業だけでなく、陸・海上の運輸業にも従事し、在町として形成されていたようだ。 川之石浦には今回訪ねた本浦の他に、本浦の西側に雨井浦、本浦の東側に楠浜浦がある。寛文7年(1667)の「西海巡見志」には、本浦は川之石浦の中心をなす集落で家数70軒・船44艘。雨井浦は「湊有、西風悪し、百石以上之船40艘・家数40軒。楠浜浦は「湊有、西風悪し百石以上之船50艘・家数43軒とある。 川之石浦の海運は幕末から明治初年には、土佐・九州・瀬戸内海沿岸・阪神地方との交易で繁栄し、船問屋は大きな利益を得て、港町も大変繁栄した所となった。明治11年には、県下最初の銀行である国立第二十九銀行がここに設立され、宇和紡績なども設立された。 また、藩政後期の当地方を特色づけるものに櫨の栽培がある。蝋の原料として櫨栽培は当地方においても盛んであった。 昭和に入って海運業が急激に衰退し、紡績業も昭和30年以降の紡績不況で工場閉鎖されてしまい、経済の沈滞が大きかった。その後保内の経済を支えたものがミカン栽培である。 古い町並みは海岸線に沿った旧街道筋に展開している。この地の繁栄が明治になってからだから、伝統的な建物も江戸時代と思われるものは無い。それでも2階建ての古い様式の建物が街道に沿って連なっている光景は見事なものである。平入り妻入り・切妻造り・入母屋造りが入り混じった町並みだが、街道に面して建っている姿は在町として機能していたと思われる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 愛媛県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 |
保内町川之石の町並み |
保内町川之石の町並み |
保内町川之石の町並み |
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保内町川之石の町並み |
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保内町川之石にあるレンガ倉庫は旧保内紡績 |