旧安田村は高知市の東方約50kmの安田川中・下流・河口に位置し、旧土佐東街道が海岸近くで東西に通っている。 海岸に沿って漁業集落と安田川の川港の水主集落として発達し、江戸期以来安田川の上流地域を顧客とする在郷町して発展した所だ。 江戸時代は土佐藩領で終始している。山内藩政の前期には安田川上流域の木材は献上木として大量に伐採されたので、安田川の河口には給人水主や御用商人・廻船商人が集住し、商業の町としても栄えていた。その後、野中兼山の執政時代の厳しい統制と夫役のため安芸郡下諸浦は疲幣したが。兼山の失脚後の寛文改替や自由化策で上方市場への木材積み出しが活発となり、天和3年(1683)の浦々諸廻船水主員数改によると安田浦では唐浜とあわせて水主204人、船舶64艘、うち38艘は廻船と市艇、26艘は漁船である。廻船のうち10反帆以上の大型船が10艘を占めるが、これは田野浦に次いで多く、安田浦は大いに商業地として発展していたのが判る。 しかし、保佐山の乱伐や上方問屋商人の不正手段での買い叩きや、藩の山林統制などのため、元禄(1688〜1704)以後は急激に落ち込み、次第に漁業と地域商業を主体とした浦町へと移行していった。 寛政3年(1791)の浦分改帳には安田村は家数296・人数1,468、廻船2、漁船17とある。 古い町並みは旧土佐東街道沿いと安田川を遡って馬路村に通じる道筋に展開している。この街道筋の町並みを見る限りは漁村と云うイメージは全くなく、在郷町・商業町として歩んできた面影が残っている。 この安田も東土佐独特の水切り瓦が多くの家屋で備わっている。それだけ横から吹く風雨が強いのだろう。 この地には「かぎ屋」(清岡氏)、益吉屋(西岡氏)、平野屋(柏原氏)、博田屋(博田氏)等などの酒造家が多かった。これは安田川上流域の馬路や魚梁瀬など山働きの盛んな土地を控えていたためと思われ、今でも2軒の造り酒屋が操業していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 日本の地名高知県 平凡社 下中邦彦 1983 |
安田の町並み |
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