卯建の町 脇町は四国第一の大河、吉野川の中流左岸にある。天文2年(1533)三好長慶は、脇町の市街地の北方の丘に脇城を築き、家臣の三河守兼則に守らせ、次いで、武田信玄の弟 信顕をすえ、西の岩倉城とともに土佐の長宗我部氏の侵攻に備えたが、天正10年(1582)長宗我部元親の阿波侵攻により落城した。 天正12年(1585)の豊臣秀吉の四国平定で、同年藩主となった蜂須賀家政は脇城を修築して、阿波九城の一つとし、家老稲田植元に守らせたが、大坂の陣のあと、稲田氏は洲本に移り、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。 吉野川の洪水が繰り返し運んだ肥沃な土地は藍の栽培に適していると、領主蜂須賀家政は、前領地の播磨から播磨藍を移植した。そして家老稲田植元に命じて栽培を奨励、保護したので、阿波藍の集散地となった。 また、江戸時代には干拓によって木綿の生産が高まり、一般庶民が藍染め木綿の着物を着るようになると、藍も爆発的な需要をみた。脇町も吉野川の舟運を利用して吉野川中流域における、阿波特産の藍の集散地として栄え、藍で全国に知れるようになり、阿波藍も隆盛を極めた。 こうして阿波を代表する特産物になった。そして脇町に多くの藍商が集まり、藍商を中心とした商人の町となり、文政年間(1818〜1830)には、ほぼ、現在のような町筋になっていた。 文政元年(1818)に作成された「脇町分間絵図」によると、脇町の南町・中町・北町・本町・大工町・茶の子町と往還の様子が詳細に描かれており、南町筋の町家は瓦屋根で店裏には大小の蔵や藍の寝床が見られる。北町筋・中町筋の町家には茅葺屋根も見られ、北町筋の東には高札場も描かれている。 脇町の藍商の建てた家は、切り妻造り、中二階、塗り込めの虫籠窓、本瓦葺で隣家との境の二階の壁面には「卯建」という火よけ壁を持った構造の家を造った。 卯建の町並みは南町通り、中町通り、茶の子町などにあり、昔そのままの建物が残っている。岐阜県美濃市の卯建のような「本卯建」でなく、脇町の卯建は一階の屋根の上に張り出した厚い壁の上に、寄せ棟造り本瓦葺の屋根をのせ、鬼瓦を正面に据えたもので、袖壁に類する袖卯建である。 卯建は本来隣家との防火壁であるが、明治以降になると家格を表す装飾的意匠が強調されて、このような形に変化したと考えられている。「うだつが上がらない」とは、この防火壁を造るには相当な建築費を要したので、この防火壁を造れないことを「うだつ」が上がらないといい、出世できないこと、甲斐のないことに転じた。 脇町南町の卯建の町並みは、切り妻造りと入り母屋造り、平入りと妻入りが入り混じり、本瓦葺、中二階、塗り込めの虫籠窓を持ち、格子、出格子に卯建(厚い袖壁)が備わっていた。 この町並みで一番古い建物は宝永4年(1707)の国見家(後年増築時に片方に卯建を上げる)。切り妻造り、白漆喰塗り込めの背の低い中二階、平入り本瓦葺きである。敷地は表通りの南町通りから、吉野川に達する広いもので、旧川岸に門があり石段を通じて吉野川にでることができた。二番目は田村家で宝永8年(1711)の棟札をもつ。国見家同様背の低い中二階で平屋に近く、卯建が上がってないのは、それを取り入れる以前のものだからだ。 脇町の町並みを歩くと、電柱と照明灯の柱もないのは好感がもてる。整備された伝統的な町並みで、電柱は取り除いたが、照明用の柱が立ち、大きな照明器具がぶらさがり、結果以前と余り変わらないという町並みもあり、脇町では何もない…いいことだと思う。 徳島県の歴史散歩 川出版社 湯浅良幸 1995年 歴史の町並み事典 東京堂出版 吉田桂二 1995年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 町並み・家並み事典 東京堂出版 吉田桂二 昭和61年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 |
南町通りの町並み |
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