吉田は陣屋町である。宇和島藩主伊達秀宗の五男宗純に明暦3年(1657)吉田藩を分封されたもので、以後9代、214年続き明治維新に至る。陣屋が置かれ、家中町・町人町からなる町場が形成された。 吉田陣屋町は当初沼地であった所を新田として造成し、立間川・河内川・国安川や人工の横掘川などを利用して陣屋町を形成したものである。石城山南麓に陣屋が設置され居館とした。陣屋の前が広場となり筆頭家老の屋敷もあった。その南に河川で周囲を取り巻く形で家中屋敷があり、240余りの武家屋敷があった。そして人工の横堀川を挟んで南側に町人町が造られた。 町人町には南北方向に西から魚棚・本町・裏町の3本の通りが造られ、本町は商業の中心で大店が並び町会所や宿屋もあった。魚棚には御用鮮魚商人や上方と取引する豪商などがいて土蔵が並んでいた。裏町は職人町で鍛冶屋・桶屋・鋳掛屋などの長屋が連なっていた。 寛文年間(1661〜73)の「西海巡見志」では家数73・船数24・加子数95とある。天保9年(1838)の幕府巡見使への「御答書覚」では町屋数本家193・借家158 計351、酒屋9となっている。 明治37年の家数993・人数4,157であった。 吉田藩の重要な産物の一つが紙で、専売制が敷かれていたが、後の吉田騒動の原因にもなっている。藩は櫨(はぜ)の植栽奨励にも力をいれ,櫨の実及び生蝋を統制品として専売制を取っていて、一時は年産44万5千貫にもなったが、明治に入りミカン栽培が普及するに従い、ミカン生産に代わっていった。 長い海岸線をもつ吉田は船引き・地引網による鰯漁の宝庫でもあった。干し鰯・鰯粕として尾道・大坂・兵庫方面に出荷して多額の運上金を藩にもたらした。 今回訪ねたのは吉田本町・魚棚・裡町(うらまち)で、陣屋町当時は町人町であったところです。本町には数が少ないが大型の古い伝統的な家屋が残っているが、見どころは魚棚だと思う。中2階建ての切り妻造り平入りで軒の高さの揃った町家が続く見事な町並みである。2階部分は虫籠窓だった千本格子だったりするが、伝統的な様式のこのような家屋が連なる町並みは久しぶりに見た感じで、興奮するのを覚えた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 愛媛県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 愛媛県の歴史散歩 山川出版社 愛媛県高等学校教育研究会 1996年 |
魚棚の町並み |
魚棚の町並み |
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魚棚の町並み |
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魚棚の町並み |
魚棚の町並み |
魚棚の町並み |
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本町の町並み |
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