宇和島市の中心部は愛媛県の南西部に位置し、北の辰野川と南の神田川に囲まれた地域である。 江戸期は宇和島藩領で、宇和島城を中核として形成された城下町。 中世から板島丸串城があり、文禄4年(1595)にこの地に入封した藤堂高虎によって、本格的に丸串城を築城し新たな城下町を形成したものが、後の宇和島城下町の骨格となる。 元和元年(1615)伊達秀宗が丸串城に入り、宇和島と改称して宇和島城と宇和島藩が成立した。それ以降明治維新に至るまで伊達氏の宇和島藩が継続した。 伊達秀宗の入封により成立した宇和島藩は、足軽まで含めると1,200家の家臣団で構成され、これと500軒程の町家が城下にあったという。寛文7年(1667)の「西海巡見志」では、「宇和島城下町」と見え、船番所があり、家数495軒・船数82、うち漁船70とある。 元禄16年(1703)頃の「御城下絵図」を見ると、城の内側と南側に侍屋敷が広がっている。南と東の外縁部に足軽歩行以下・御借長屋・御小人などの記載があり、城の北側に船入場があり、船奉行・船作事場・御藏屋敷があり、水主が並ぶ。町方は城の東側一帯に南北に長い状態であった。城の西側は全て海で、現在の市役所や宇和島道路の在る所も海だった。 城を中心として、神田川と辰野川に囲まれた地域に城下が広がる骨組はこれ以降明治期まで変わること無かったが、城下は東南部の外縁部と、西側の海を埋め立てた干拓地へと拡大していった。 今回訪ねたのは主として、城の南側の旧侍町から城の東側の旧町家地域である。天赦園西側の城南中学校前から歩きだし、城南地区をジグザクに東に進み、愛宕町辺りから北に進み、宇和島バスセンターまで歩いたが、古い町並と思えるのは佐伯町1丁目にある造り酒屋さんと、本町追手2丁目の旅館建物辺りだけしか見いだせなかった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 愛媛県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 愛媛県の歴史散歩 山川出版社 愛媛県高等学校教育研究会 1996年 |
左右は佐伯町2丁目、奥は佐伯町1丁目 |
本町 右は佐伯町2丁目、奥は佐伯町1丁目 |
佐伯町1丁目の町並 |
佐伯町1丁目の町並 |
佐伯町1丁目の町並 |
佐伯町1丁目の町並 |
佐伯町1丁目の町並 |
佐伯町1丁目の町並 |
佐伯町1丁目の町並 |
愛宕町2丁目の町並 |
本町追手2丁目の町並 |
本町追手2丁目の町並 |