内子の町並み 
八日市・護国・本町・
地図


八日市の町並み
  内子町は愛媛県の県都松山市から南西へ約40kmのところに位置し、江戸時代から明治にかけては木蝋と和紙で栄え、特に晒蝋生産では全国に名をなした。
この地方は室町時代には、曽根氏の支配するところだったが、天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国平定で、小早川隆景の支配になったが、戦国の世が終わり江戸時代になり、内子は元和3年(1617)から大洲藩六万石加藤貞泰の領地となり、明治の廃藩まで加藤氏の治めるところとなった。
内山盆地の中心内子は、曽根城城下の市場町として形成されたと見られる。「大洲秘録」は内ノ子村を定期市の立つ六日市・七日市(後に八日市)・廿日市の三地区に分けられていた。最も古いのは廿日市で、これは中世に願成寺の門前市として発達したものと思われる。その後、高昌寺の門前に七日市(後に八日市)を設けたが、あまり繁栄しなかったので、七日市を分けて六日市を設けた。その後六日市は順調に発展して、現在の町の商業の中心地となっている。
大洲和紙の生産が始まったのは寛永5年(1628)ごろからで、大洲藩は紙漉きを奨励保護し、宝暦10年(1760)には内子に紙役所を設けて、集荷した和紙を大坂に送り、藩収入の80パーセントにもなった。
一方、この地方で木蝋の生産が始まったのは元文3年(1738)綿屋長左衛門が安芸の国(現広島市)から、蝋職人3人を招いて製蝋を行ったのが始めとされている。その後、文久年間(1861〜64)に八日市の芳我弥三右衛門の発見になる、伊予式箱晒法による白蝋製造で、優秀な品質により、生産額は増大し飛躍的に発展、大洲藩の重要財源となり、八日市を中心に晒蝋業者が輩出した。そして最盛期の明治中期には、国内の主要生産地となった。
八日市に今なお残る豪壮な蔵屋敷は、その当時の繁栄を物語るもので、道の両側に連なる蔵屋敷、白漆喰塗り込めの虫籠窓、桟瓦葺の大きな屋根、みごとな出格子、豪華な破風飾りなどがそれである。
護国・八日市の町並みは、入り母屋造りや切り妻造り、平入り、白または黄色味を帯びた漆喰塗り込めの虫籠窓、なまこ壁も斜めのもの、真っ直ぐに貼ったものなど、格子にも繊細な彫り物をあしらっていて、鏝絵の施された壁もあった。瓦は桟瓦葺で、蔀戸、バッタリが備わっている家もあった。
町並みには電柱がなく、江戸時代から明治にかけて建てられた商家、民家がずらりと軒を並べている様は、チルド保存された昔町へ迷い込んだようだ。
町並みの中程に、本芳我家と上芳我家、大村家がある。
本芳我家は最大の晒蝋業者の芳我弥三右衛門の邸宅で、明治17年に建てられたもの。国の重要文化財に指定され、一部公開されている庭より主屋の妻面の上部を見ると、漆喰を使った龍の鏝絵の懸魚があり、それを見るだけでも木蝋生産で富みを蓄積した豪商ならではの建物だとわかる。主屋は道路に平行に棟があるので、かっては平入りであったのかもしれないが、今は妻入りとなっていた。主屋の左側に土蔵、右側に庭園がある。主屋は二階建て、白と黒の漆喰塗り込めで一部ナマコ壁、二階の出格子の周りは白漆喰で固められ、鏝絵が施されていた。
上芳我家は内子町が借り受けて木蝋資料館として、一般公開しているもので、本芳我家よりの分家である。主屋は明治27年の建築で国の重要文化財に指定されている。切り妻造りの二階建て、平入り、桟瓦葺、浅黄色と白の漆喰塗り込めの虫籠窓、なまこ壁、袖壁、出格子、格子、格子戸の重厚な商家。木蝋生産で富を蓄積した豪商ならではの豪壮で精緻な邸宅。
本芳我家の隣に大村家がある。この地域では最も古い建物で、寛政2年(1790)に建てられた町家。雑貨商、染物商、生糸製造にかかわってきた。主屋は切り妻造り、中二階建て、白漆喰塗りこめの虫籠窓、桟瓦葺き、平入りである。二階建ての多いこの地域では目立った古い建物である。
大正に入り隆盛を誇った木蝋も、西洋蝋(パラフィン)の普及、石油の輸入、電灯の導入によって需要は激減し、衰退廃業になった。
町並み指数 80
参考文献    
  愛媛県の歴史散歩  山川出版社  愛媛県高等学校教育研究会  1996年
  歴史の町並み事典  東京堂出版  吉田桂二  1995年 
  町並み・家並み事典  東京堂出版  吉田桂二  平成9年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和56年

八日市の本芳我家附近の町並み

護国の町並み

内子座

八日市の上芳我家の庭から見る

八日市の町並み

八日市の大村家(重要文化財)
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