宇多津町の町並み 
宇多津町
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宇多津町の町並み(この辺りの町名は宇多津町○○○○番地である)
 宇多津は古くから湊町として栄え、特に軍港としての性格を持って発展してきた。宇多津の南北朝時代は細川頼之が守護所を置き、讃岐国の政治・経済の中心地として、また四国屈指の湊町として栄えていた。
生駒親正が讃岐に入ったのは天正15年(1587)で、当初は引田城に、次いで聖通寺城に入ったが、いずれも狭小であったので、高松城の築城を開始した。また生駒氏は別に慶長2年(1597)から丸亀城の築城もはじめた。そして両方の城下町の整備と繁栄のため宇多津から多くの人たちや寺院を丸亀や高松に移した。それにより中世以来、讃岐の中心として栄えてきた宇多津は、政治・経済・軍事の表舞台から姿を消した。しかし高松藩の米蔵が宇多津に置かれたため、藩西部の物資の集散地や重要な商港としての機能は保持し続けた。
また、米蔵の設置と前後して浦番所・遠見番所が置かれ、海上警備や船舶の出入の取締りにあたった。
湊町の性格が強まるにつれて商家の数も増加していった。町並の様子は金毘羅大権現に奉納された安政3年(1856)の絵馬によって詳しく知ることができる。天保9年(1838)の幕府巡見使の記録によると家数866・人数3,584とあり、内本百姓は1,807、魚商人・緒職人・医師・漁師・水主などが1,693とあり、商業の発達した町だったことが伺える。
また巡見使や藩役人の宿割りを見ても、殆どの家が屋号を持つ商人である。
宇多津では明治に入ってから塩田の開発が盛んになり、盛んに製塩が行われ、昭和に入っても製塩は順調に続けられた。そして製塩設備の改良などにより、昭和44年にはこれまで最高の7万トン以上の生産実績をあげたが、昭和46年の製塩整備法に合致せず、全ての操業を停止し、塩の町宇多津から塩田が姿を消した。
古い町並は町役場の南に展開している。町役場の南500mほどの所を旧丸亀街道が通る。この旧街道に沿って古い伝統的な家屋が連なる。またこの旧丸亀街道から町役場までの南北の通りにも伝統的な様式の古い家屋が連なる。いずれも港町時代の商家や塩田時代の商家が混在しているようで、この辺りの町屋の建物を「町屋造り」という。町屋造りとは聞きなれない言葉ですが中2階建ての塗り込め虫籠窓の家屋のようだった。
町並指数  40
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和60年
  香川県の地名  平凡社  下中 弘  1989
  香川県の歴史散歩  山川出版社  香川県歴史散歩編纂委員会  1996

宇多津町(○○番地)の町並み

宇多津町の町並み

宇多津町の町並み 

宇多津町の町並み

宇多津町の町並み

宇多津町の町並み

宇多津町の町並み

宇多津町の町並み

宇多津町の町並み

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