愛媛県の南西に位置する宇和町の中心地が卯之町である。室町時代に宇和郡の領地を与えられていた西園寺実充は、天文18年(1549)居城を松葉城の南方約1.8kmの宇和川対岸に位置する黒瀬城に移転し、城下町を山麓に造った。城主西園寺公広は、天正12年(1584)、土佐の長曽我部元親の支配下に入り、翌年の秀吉の四国制圧で小早川隆景の軍門に降伏開城した。 この地の領地は小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎、冨田信高とかわり、その後幕府直轄領となり、大坂の陣の後、慶長20年(1615)に、伊達秀宗が宇和郡10万石を与えられて宇和島に入ったとき、卯之町(当時は松葉町)の賑やかな有様を見て驚いたという。 宇和島藩成立後の慶安4年(1651)黒瀬城の山麓に形成されていた松葉町を、大念寺山麓に強制移住させて、その後、卯之町と改称し、以後、宿場町、在郷町として農村経済の中核となって発展を続け、約250年間明治に至るまで繁栄が続いた。 この町は宇和島と大洲を結ぶ宇和島街道沿いにあり、さらに宇和川下流の野村方面への交通路の分岐点にあたっていたことから、江戸時代には宇和島藩最大の在郷町として、また、宇和島と大洲の間の宇和島街道の宿場町として栄えた。 寛政元年(1789)戸数140軒・人数508人、天保9年(1838)戸数149軒・人数615人であった。 卯之町の市街地は、ほぼ南北に走る三列の道路に沿って造られているが、最も古い町並みは山すその中町通りである。ここには「天保時代の卯之町全景図」さながらに、白壁、蔀戸、卯建、出格子などをもつ商家が残っていて、昔の繁栄を偲ばせている。 明治から大正にかけての卯之町の中心は、藩政時代と同じく中町であった。そして郡役所や開明学校を始め、各種の公共機関、さらには主な商店が集まっていた。これに対して下町には農家が多かった。明治33年に中町の南側に県道が開通し、商業の中心は県道沿いに移り、昭和36年に県道の南側に国道56号線が開通すると、商店や官公庁などが国道筋に進出して、町の中心が南へ南へと移り、中町は昔のまま残った。 中町通りの東の突き当たりに造り酒屋がある。江戸時代より続く造り酒屋で、主屋は入り母屋造りの中二階、白漆喰塗り込めで虫籠窓が一部あり、桟瓦葺、平入りである。 その西側に壮大で立派な門がある。これが鳥居門といわれる大門で、武家屋敷のような門だ。天保5年(1834)に庄屋鳥居半兵衛によって建築されたもの。庄屋には分不相応な格式高い門構えという理由で、半兵衛は左遷されてしまった門である。 中町の一番東端にも造り酒屋がある。江戸時代より続く造り酒屋で、主屋は切り妻造りの二階建て、桟瓦葺、平入り、格子、出格子で、主屋の奥の大きな敷地に大きな酒蔵がいくつも並んでいた。主屋の左側にも商家の建物が並び、これらは全部平入りの2階建てだが、その対面の中町の道を挟んだ反対側は、6軒並んでノコギリの刃のような妻入りの家が並び面白い対照である。 この妻入りの家屋全部がきれいに修復されていた。どの家も白漆喰塗り込めで、格子と袖壁が備えられている家が多く、その6軒並んだ妻入り家屋の中に、文化の里休憩所がある。旧横山家を復元したもので、卯建が上がっていた。 町並みには電柱がなくすっきりとしていた。江戸時代より続く老舗旅館は、中町通りに大きな建物があり文化元年(1804)に建てられたもの。切り妻造り、白漆喰塗り込めの二層になった平屋建て、平入りで中央右寄りに、切り妻造りの破風をもち、大きな持送りで支えられた玄関があった。大きな屋根は桟瓦葺で、両端と間に3列の全部で5列の本瓦の降棟が付いていた。この老舗旅館の営業はこれらの建物ではなく、県道沿いに新館の建物を建てて、そちらで営業をされていた。 中町通りには他に、大きな商家の建物がある。切り妻造りの2階建て、平入り、桟瓦葺、格子で、1階の軒庇は大きな持送りで支えられていた。主屋の左側には土蔵、右側は煉瓦塀で、この煉瓦は宇和で焼いた最初の煉瓦だ。山手に西日本最古の学校の開明学校、甲義堂がある。甲義堂は明治2年に地元の有志によって建てられた私熟だったが、明治5年の学制発布とともに開明学校の最初の校舎となったものだ。 愛媛県の歴史散歩 山川出版社 愛媛県高等学校教育研究会 1996年 宇和の歴史探訪記 宇和郷土文化保存会 門多正志 平成6年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 |
鳥居門と町並み |
中町通り(卯之町三丁目)の町並み |
中町通り(卯之町三丁目)の町並み |
中町通り(卯之町三丁目)の町並み |
中町通り(卯之町三丁目)の町並み |
中町通り(卯之町三丁目)の町並み |