甲浦は阿波・上方方面からの土佐国の玄関とされていた。室戸岬に至る間には良港がないため、避難・寄港の地として重要なだけでなく、土佐藩にとっても要地であった。 慶長6年()山内氏入国の際は当地に着船し、後は陸路で入国しているし、その後の参勤交代でも発着の地となり、藩主の宿舎や御座船格納の施設などが完備された。 江戸時代を通じて土佐藩領であった。Y字形になった入江のうち東方を東股、西方を西股と呼んでいた。 慶長8年(1603)の東浦船頭水主帳によると、甲浦の水主は87人。天和3年(1683)の浦々諸廻船并水主員数改によると白浜とあわせて、船数94であった。「土佐州郡志」(宝栄4年(1704))によると家数292。 元禄7年(1694)の甲浦諸品覚書には家数296・人数1,391。廻船32艘、漁網40張とあり近世を通じて最高の繁栄時代だったようだ。この時期は保佐木が上方での需要が増え、廻船ブームを呼んでいたのが原因のようだが、その後濫伐による資源の枯渇や、参勤交代の経路変更などで甲浦の景気の急速に落ち込み、漁業を主体にした浦へと転換を余儀なくされた。 また、地震による津波や、人家の密集が激しい甲浦では大火が絶えず、寛保3年(1743)の郷村帳では家数238・人数944だったのが、寛政3年(1791)の浦分改帳では家数166・人数642と大幅に減少し、船は26艘で廻船がなく、漁網も12張になっていた。 白浜については遠浅の入海が連なる砂丘上に開発された新田で、中央を土佐街道が貫いている。近世初頭に明神家の手で行われた開発によって生まれた村で、草木の生えない開発困難な土地であったため、各種の優遇処置がとられて成果が現れ、寛文9年()頃には人数400人を数えるようになった。 遠浅の海岸のため津波の被害は少なかったが、それでも宝永4年(1707)の大地震や宝暦13年(1763)には大火に見舞われ集落の殆どの124戸が焼失した。寛政3年(1791)の浦分改帳では白浜の家数は82・人数251とあり、天保9年(1838)の巡見使応答帳では家数82・人数362と少しは回復したようだ。 漁業は春に小鯛・甘鯛・糸より、夏に鰹・飛魚・ムロアジ、秋・冬に鰯・大魚をとり、漁間には春の磯草とりと大坂御用船水主などをしていた。 今、旧土佐街道を歩くと、この地に多いミセ造り(ぶっちょう造り)は白浜には多く見られ、ぶっちょう造りの町並が連続するが、甲浦小学校辺りを境にして甲浦へ来ると、このぶっちょう造りが全く見られない不思議な現象に合う。 この地方の解説で「ミセ造り」(ぶっちょう造り)は徳島県出羽島や日和佐で記載したのでここでは少し観点を変えて書くと、もともとこの「みせ造り」(ぶっちょう造り)は平安時代の神社、寝殿造りの邸宅などの揚げ蔀戸からきているものであり、民家としては京都から出たものである。入口の横に上下2枚の板戸のことで、上部を上にあげると、室内の風通しになり暑い京都の夏を過ごし易くし、下部を下にさげると足が付けられていて縁台になり、商品を陳列して小売するための台になっていたもの。その様式が京都から各地に伝わり、あちらこちらでこの様式が残っているものである。 この地でも上部は暑い夏の風通しに、下部は海産物の乾燥に、漁具の修理に、商品の陳列に、日向ぼっこの場として、夜になれば夕涼み台にとこの様式が重宝されていたのだろう。 高知県の歴史散歩 山川出版社 高知県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 日本の地名高知県 平凡社 下中邦彦 1983年 日本の町並U別冊太陽 平凡社 湯原公浩 2003年 |
白浜の町並 |
白浜の町並 |
白浜の町並 |
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甲浦西の町並 |
甲浦西の町並 |
甲浦西の町並 |
甲浦西の町並 |
甲浦東の町並 |
甲浦東の町並 |