高松市庵治町は四国最北端の庵治半島の北を占めている。今回訪ねたのは庵治町の中でも庵治港周辺の地域である。 江戸はじめには庵治浦と呼ばれていたが、寛永〜貞亨年間(1624〜88)に庵治浦が庵治浜村と庵治陸村にわかれ、庵治浜村は海岸部、庵治陸村は庵治半島の内陸部から成っていた。 近世はじめは生駒氏領、寛永19年(1624)からは高松藩領。 今回訪ねたのは庵治港近くの庵治浜村と呼ばれるところで、村高は寛永10年(1633)讃岐国絵図では庵治浦(浜・陸両村)として846石余、「貞亨元年高辻帳」178石余、「天保郷帳」312石余、「旧高旧領」386石余。 庵治浦では15世紀には既に海運業が発達していて、江戸期には諸荷物の交易が盛んになり、商業港として栄え、高松藩の浦番所が置かれ、荷物の運上銀徴収などが行われていた。 北前船をはじめとした廻船業も盛んに行われ、物資の集散地としても賑わっていた。 その他に庵治浦では塩業も盛んで、明治になっても続けられていた。砂糖生産も活発におこなわれていて、明治3年では甘蔗栽培面積は浜村・陸村合わせて14町余もあった。 瀬戸内海に囲まれているため、昔から漁業も盛んで、中高網・地引網・大手繰網・このしろ網・鰯網・流し網など57帖の網が許可されていた。 庵治石も有名で、最初に使用されたのは高松城築城のときで、それ以後産出は年を追って増加していった。特に第2次世界大戦後は産出・加工が急増し、今に至っても石の町として名を馳せている。 いま、庵治港周辺を歩くと、廻船業で潤っていた当時の残照は一部の大型商家にしか見られない。 訪ねる途中の道中には石の加工工場が連立していて、見事な石の町を形成していた。 石の産出と加工、漁業で成り立つ町のように見えるが、汚染のつづく瀬戸内海ではと思う。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 香川県の地名 平凡社 下中 弘 1989 |
庵治町の町並 |
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