多度津は古代より港があり、交通の要衝であった。戦国末期には讃岐の西方守護代香川氏の居館があったとされ、港町とともに政治・経済的にも西讃岐地方の中心地として栄えていたようだ。近世には金毘羅参詣客の上陸地として栄えた。 天正3年(1575)生駒氏領を経て、寛永18年(1641)より丸亀藩領となった。明暦4年(1658)より藩主は京極高知となり6万石余りを領した。元禄7年(1694)から京極高通が1万石を分封されて多度津藩が成立した。 しかし藩主は丸亀城の部屋住まいで、多度津には家臣の居宅10戸余りを建てただけで藩政を執らせていた。文政10年(1827)に多度津陣屋構築の許可を得て陣屋が建てられ、明治4年の廃藩まで京極氏の陣屋であった。 多度津の町の繁栄は天保5年(1834)に港の構築に着手し、同9年(1838)完成したことにより、多度津は内海屈指の良港となった。讃岐産の砂糖や綿などを積んで日本海沿岸から北海道まで航海し、干鰯・肥料などを持ち帰る西廻り航路の北前船の基地として発展した。 その結果廻船問屋・干鰯問屋やその他の問屋が軒を連ねた。金毘羅宮参道の玉垣に、約60軒の多度津干鰯問屋の名が刻まれている。 また、金毘羅参詣者は多度津に上陸し、金毘羅街道を通って琴平に向うので、浜辺には船宿・旅籠屋が立ち並んで賑わった。明治8年頃の家数923・人数4,250とある。現代語訳の「西讃府志」によると家数859・人数3,101とある。 今古い町並は旧金毘羅街道の東浜から本通1丁目・2丁目と大通り辺りに見られる。特に本通り1丁目の旧金毘羅街道沿いには造り酒屋さんを初めとした伝統的な重厚で広大な商家の建物が連なる。特にこの辺りには醸造業者が多く居住したそうだ。油屋・柏屋・松尾屋・灘屋などの酒造問屋があった。この辺りの建物はいずれも切り妻造りで平入り、中2階建て虫籠窓を備えた建物だ。ナマコ壁の土蔵や本瓦葺きを残した商家の建物も多い。 又、家中と呼ばれる地域には、陣屋町時代の上級武士が住んだ町割りのまま、昔の姿で残っている。広い通路に広大な屋敷が規則正しく整然と並んでいる武家屋敷群だ。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 香川県の地名 平凡社 下中 弘 1989 香川県の歴史散歩 山川出版社 香川県歴史散歩編纂委員会 1996 |
東浜の町並 |
本通1丁目の町並み |
本通1丁目の町並み |
本通1丁目の町並み |
本通1丁目の町並み |
本通1丁目の町並み |
本通1丁目の町並み |
本通2丁目の町並み |
家中の町並 |
家中の町並 |