瀬戸内海に浮かぶ高見島は塩飽諸島の一つで、多度津から海上を北に約7.5KMにある。 島の伝承によると、建久年中(1190〜99)に備前児島から移住したのが始まりという。 浦の大聖寺に天正19年(1591)、浜の八幡宮には慶長2年(1597)の棟札があり、塩飽の他の島々と同様に戦国期前後には相当繁栄していたようだ。 天正18年(1590)豊臣秀吉が塩飽諸島の全部の田畑・屋敷・山の検地を行い、1,250石の地を塩飽7ヶ島の船方650人に配分領地するよう朱印状を与えた。これが人名制で、高見島の人名数は77であた。 正徳3年(1713)の家数249・人数1,447、船72で50石積以上が24艘あり、廻船業を生業としていたことが知られる。天明5年(1785)の宗門改帳では家数235・人数908、船34の内漁船28・廻船3・生船3で塩飽の廻船業の不振を示している。廻船の減少は人口減少となり、漁業への転向が見られる。 寛政2年(1790)の塩飽島明細帳によると高見島の鯛網は4帖で運上銀144匁を納めていた。しかし文政6年(1823)の島相続評議書では、この鯛網も衰え、細々と鰯網で生計をたてていることが記載されている。 でも廻船業は全く廃れてしまったのではなく、万延元年(1860)の渡米で咸臨丸に乗船した塩飽水夫35人のうち4人が高見島出身であった。 江戸時代高見島は塩飽諸島の一つとして、本島の年寄の支配を受けて、島の行政を預かったのは庄屋である。島庄屋は上・中・脇の三家が置かれ、それぞれ三谷家・中野家・宮崎家が世襲した。 明治8年頃の家数205・人数896である。 高見島には集落が三つあって島の北端近くに板持・南部に浜・浦の集落が有る。 浜集落は島唯一の平坦地で、漁村集落特有の家と家の軒が接するような建て方で、その間を細い道が通っている。浦集落は一部海岸沿いに建っている家もあるが大多数は山の急傾斜地に建っている。中には伝統的な様式をそのまま残した大きな家屋もあるが、人が住んでいる家は少なく、殆どが無住になっている。 浦集落の海岸沿いに猫が多くいた。あまり多くいるので数を数えると見える範囲で約20匹いた。地元のおばさんは人間より猫の方が遥かに多いのだよと云っていた。 急傾斜地の浦集落があまりにも人が住んでいる様子が無いので、帰ってから高見島の人口を調べると、2005年度の国勢調査では45世帯・73人と発表されていた。でも今ではそれよりも少なくなっているのは現実だろう。 建物や町並を保存する運動が各地で起こっているが、ここではそれよりモット深刻で、人をどうしてこの島に留め置くかが問題だ。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 香川県の地名 平凡社 下中 弘 1989 香川県の歴史散歩 山川出版社 香川県歴史散歩編纂委員会 1996 |
浜地区の町並 |
浜地区の町並 |
浦地区の町並 |
浦地区の町並 |
浦地区の町並 |
浦地区の町並 |
浦地区の町並 |
浦地区の町並 |
浦地区の町並 |
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