須崎は高知県中央西部で高知市から西方約40kmに位置し、土佐湾に面してリアス式海岸の地域である。江戸期には鰹節の産地として名を馳せていた。 江戸期を通じて土佐藩領で村方と浦方に分れていた。 須崎は中世から葉山・津野山方面の後背地を控えて在郷町として発展していた。津野氏の居城の城山南麓の土居を中心に津野氏家臣団の居屋敷が山麓に沿って東西に並び、中央を南北に走る道路の東側に有姓商人の町屋が、西側に無姓の者の町屋が、その南の海浜に臨んだ地区に漁民集落があった。 関ヶ原の戦い後、土佐に入った山内氏の時代になっても、須崎は保佐木・起炭・茶・和紙などの諸産物を集積し、中でも茶・和紙は海路城下へ送られ、在郷町として発展した。神田屋・池丸屋・橋本屋・万屋・和泉屋・鍵屋・竹野屋・野見屋・高知屋・徳本屋などの和紙問屋・廻船業・鰹節製造・薪炭問屋などの有力商人たちがいた。 須崎浦の成立時期は明らかでないが、天正(1573〜92)頃には現新町付近に漁民集落が形成されていたと思われ、安永5年(1776)の古地図などから、現青木町・浜町・横町・中町・西町を須崎浦と呼んでいたようだ。 「土佐州郡志」によると村方は家数凡そ197・人数895。浦方は凡そ家数216・船79とある。浦方の家数が村分を上回っていることから、農村経済の行き詰まりと漁業技術の進歩とが相まって附近の農村から人口流入が起こっていたことが考えられる。 寛保3年(1743)の郷村帳では家数494・人数2,081とあり、「南路志」によると村方の家数253・人数1,201、浦方の家数267・人数1,118・船32内廻船1・鰹漁15とある。元文4年(1739)の須崎浦諸漁漁請銀覚では鰹漁船11・小船網船とも60を数え、文政5年(1822)の諸国鰹節番付表では土佐鰹が殆ど上位を占め、その中でも須崎鰹の名が通り、活気に満ちた漁村集落であった。 だが、須崎は津波の被害が大きく、特に宝永4年(1707)には死者400余人、流れた家432を数え、船舶・網漁具などにも壊滅的な打撃を受けている。 明治に入ってからも漁業等の水産業は活況で、産物では水産物が多くを占め、工産物がこれの次いでいる。 今、古い町並を構成する家屋は連続しては残っておらないが、伝統的な様式の家屋が東古市や青木町・浜町・西町などに点在する。ナマコ壁の家屋・水切り瓦を備えた家屋も散見できるが、漁港や海岸に近くで、潮風の暴風雨さらされるのに白や黒の漆喰壁の多いのに驚かされる。これは上方との交易が密であった証と思われ、過去の富の蓄積がこの町並みを形成しているのだろうと思う。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 日本の地名高知県 平凡社 下中邦彦 1983年 高知県の歴史散歩 山川出版社 高知県高等学校教育研究会 1996 |
青木町の町並み |
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東古市町の町並み |
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浜町1の町並み |
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