宿毛市沖ノ島町母島の町並み 
沖ノ島町母島
地図


沖ノ島町母島集落
 宿毛市沖ノ島町母島は宿毛湾の入り口、太平洋に浮かぶ沖ノ島の北部に位置する。
江戸期は宇和島藩領。島の中央にある妹背山の西北方海岸に母島浦、その南に小矢野浦(古屋野浦)、母島浦の東北に窪浦(久保浦)がある。
村高は太閤検地18石余、正保検地39石余、寛文検地34石余、「弐墅載」によると百姓数114、うち小矢野浦44・母島浦44・久保浦26。役水主42、うち小矢野浦17・母島浦17人・久保浦8。
宝永3年(1706)の久保浦・小矢野浦を合わせた百姓数113、家数108・人数476、鉄砲15、鰘網3、荷船1・鰹釣船3・小船25、水主42。宝暦7年(1757)の百姓数25、家数45・人数162、鰘網1、鰘船7と大きく激減している。これは宝永4年(1707)の大地震の津波による被害と思われる。
明治7年、久保浦・小矢野浦を合わせた家数64とある。
第2次大戦の末期には特殊潜航艇回天の基地となり、施設は出来上がったが、実際の配置はなかった。終戦直前に住民は橋上村に疎開させられた。
母島は宿毛港の片島から約1時間ほど、市営の連絡船が運行されているが、一日2便しかない不便な所。集落には平地が殆ど無く山の斜面に石段・石垣を造って民家が階段状に建ち並んでいる。石段や石垣の石は花崗岩で母島地区では赤みを帯びた花崗岩である。弘瀬地域は灰色の花崗岩だったので、同じ島内でも北と南では石の色ががらりと変わっている。集落内の道は人がすれ違うのもやっとの幅で、すべて階段か急傾斜の坂道。弘瀬地区よりもこの母島地区の方が集落内の傾斜が「きつ」い。
見事に積み上げられた石垣だが、最近はこの島に石工がいなくなったようで、石垣の補修が大変だと聞いた。
集落内を歩くのは全く登山と同じで、ハイキング気分では登れそうもない。とはいえ、ここも弘瀬同様に車の通れる道が集落の上に走っているので、集落の上の方には鉄筋コンクリートの大きな建物が建てられていた。また、道路の下に大きな穴がある。何だろうと思って見ていたが、帰って調べると戦争末期の回天基地の名残とのことだった。
町並み指数 50
参考文献  
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和61年
  日本の地名高知県  平凡社  下中邦彦  1983年

沖ノ島町母島の町並

沖ノ島町母島の町並

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