四万十町役場の近くで、国道56号線から分れて興津坂トンネルまでは立派な2車線の道路ですが、トンネルを出た辺りから道が細くなり、急坂を駆け下る状態になります。約5km程は離合もままならない細い曲がりくねった道路が続きます。前方下の方に興津の集落と海が見え、意外に広く開けた集落ですから、他に道があるだろうと思い興津へのアプローチを間違ったかなと思います。 興津は昭和23年までは与津村といい、江戸時代は土佐藩領だった。宝永7年(1710)の下灘浦々縮書によると、家数133・人数533、船数9(内廻船2・漁船7)。寛保3年(1743)の郷村帳では家数251・人数1,108、船数16とある。 享和元年(1801)の「西郷浦山分廻見日記」によると村方と浦方に分けて記され、村方は家数145・人数600、牛馬80、鉄砲8。浦方は家数114・人数525、漁船5・小船5・瀬の魚船4・小船9・地引網船1・大魚船3……とある。 天保年間(1830〜44)の「浦々諸縮書」によると浦方の家数151・人数719。職業別人数は家族も含めて、庄屋13・水主漁師365・商人292・職人14・間人32・医師3、船は廻船1・鰹漁船5・諸漁船48とある。 やっとの思いで辿り着いた興津は意外に開けた農村集落で、大きな面積の田畑が広がっているし、キャンプ場や海水浴場もある意外性のある集落だった。 さて、この興津集落が古い町並みかどうかは別として、蓬莱竹(大名竹)の生垣で囲まれた農村集落の珍しさで訪ねたのです。集落には郷地区と浦地区に分れていて、蓬莱竹の集落は郷地区の方だった。 峠から続くメインの通りには殆ど竹垣はありませんが、そこから一歩細い道に入ると蓬莱竹生垣が続く。どの蓬莱竹生垣もきれいに刈り込んであった。夏に刈り込むのだそうで訪ねたのは10月下旬だから、綺麗な生垣が撮影できたことになります。只、この竹の生垣は刈り込みの手間がかかるので、徐々にブロック塀に置き換わって行くようですが、高知県はこの竹生垣集落を県の伝統的建造物群保存地区に指定して保存に努めているそうです。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 日本の地名高知県 平凡社 下中邦彦 1983年 |
集落内の町並み |
蓬莱竹の生垣集落 |
蓬莱竹の生垣集落 |
蓬莱竹の生垣集落 |
蓬莱竹の生垣集落 |
蓬莱竹の生垣集落 |
蓬莱竹の生垣集落 |
蓬莱竹の生垣集落 |