四万十川町の中心部は旧窪川町の中心部であったところで、高知市から国道56号線で西南に約65kmの所に位置する。 四万十川上流域の標高200m前後の比較的広い窪川台地上にあり、周りは標高300〜500mで、四万十川最大の水田地帯であり、古来より仁井田米の産地として知られた所です。 江戸時代は土佐藩領で、江戸初期は窪川山内氏の知行地でその土居があり、中村街道と窪川宇和島街道の分岐点にあたるところから商業が発達し多くの町屋があった。 窪川山内家は最初、古渓山に城を構えたが一国一城令で取り壊されその麓に土居を構えた、その場所は今の新開町辺り、家臣や町民の住む場所も整備した。だが正徳6年(1716)、6代勝興が6歳で没し窪川山内家は断絶してしまった。 その後この地には在番役が置かれたり、作配役が派遣されたりしたが、再び在番役が置かれたが、廃藩置県で廃止された。 この地の開発は窪川山内氏の3代勝政が仁井田開発に大きな事績を残しているが、窪川山内氏断絶以後、次第に荒廃していく窪川を復興させるために藩では、仁井田窪川郷士を募集して開発に当たらせた。 寛保3年(1743)の郷村帳によると、家数123・人数461。享和元年(1801)の「西郷浦山分廻見日記」によると家数300余り内町分の戸数は49・人数900余りとある。文化元年(1804)の「所々土居下町家数之覚」には「売人町壱筋した町 家数54軒」とあり、商業の発達が見てとれる。 窪川は中村街道と窪川宇和島街道の分岐点にあたることから、商業が発達していた。それは明治・大正・昭和になっても受け継がれ、物資の集散が多く、町内は活気にあふれていたようで、明治24年には家数1,151・人数5,502。昭和7年の家数1,505・人数7,552とあり、産業は農業を中心としていて、中でも仁井田米は有名であった。 今、町並みを歩くと、伝統的な様式の家屋は本町の造り酒屋の辺りに点在している程度で、古い町並みと云うにはチョット寂しい感じだった。でも、町並みは形成されていないが、古い形式の家屋は町のあちらこちらと点在していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 日本の地名高知県 平凡社 下中邦彦 1983年 |
本町の町並み |
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