志度は志度寺の門前町として栄えた歴史ある町である。 志度寺は平安初期の創建と推定され、平安末期には観音霊場として知られ、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の冨士山などとともに志度道場が知られていた。 平家物語によると文治元年(1185)、志度寺にたてこもった平家は、義経の率いる80騎の急襲に敗れている。室町時代には守護細川氏代々の保護寄進があり隆盛を極めたが、戦国時代土佐の長宗我部の兵火で堂宇を焼失している。 室町期の志度は、海上交通の要地となっていて、文安2年(1445)の「兵庫北関入船納帳」にその名が上がっていて、志度において活発な交易の展開があったようだ。 江戸時代のはじめは生駒氏領であったが、寛永19年(1642)からは高松藩領となった。 天保9年(1838)の「御巡見諸事書出帳」によれば、志度村の家数1130軒・人数4625人を数え、安政5年(1858)の家数1157軒・人数5148人であった。 村の中央を高松城下から阿波国に至る東讃浜街道(志度街道)が東西に通り、宿駅問屋が置かれて、人馬の継ぎ立てを行い、四国霊場八十八ヶ所第86番札所志度寺参詣の遍路宿がならんでいた。 高松藩では志度に米蔵を置いて年貢米を収納していた。その米蔵のそばに火の用心のための用心堀があって、そこに立っていた嘉永4年(1851)の石灯篭が現在も残っている。 江戸中期の奇才といわれる科学者の平賀源内の生家は、志度の米蔵のお蔵番であって、寛延2年(1749)その職を継いだが、それで満足せず、薬草の研究・、長崎で洋学を学び、エレキテルの復元、石綿の創製、寒暖計の発明などの偉業を残した。 現在、平賀源内先生遺品館が生家の横に建てられ、多数の書簡・著作・源内焼・薬箪笥・エレキテルなどが展示されている。 志度の町並みを歩くと、お遍路さんのための旅館が多く残っている。古い町並みを形成する民家は平入りが多い。切り妻造り、中2階建て、漆喰壁の虫籠窓、本瓦葺き、格子、出格子の家屋が 点在し、遍路道の風情が残る旧志度街道は落ち着いた町並みであった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 香川県の地名 平凡社 下中 弘 1989 香川県の歴史散歩 山川出版社 香川県歴史散歩編纂委員会 1996 四国小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1999 |
平賀源内先生遺品館 |
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