坂出市中心部の町並 
元町3・本町2・本町1
地図


元町3丁目の町並
 坂出市の中心部は香川県中央部の北端に位置し、瀬戸大橋により四国の玄関口となっている。
江戸はじめは生駒氏領、寛永19年(1642)からは高松藩領。坂出村の村高は「寛永17年(1640)生駒氏惣高覚帳」490石余。「貞亨元年(1684)高辻帳」31石余り、「天保郷帳」625石余、「旧高旧領」936石余。
現坂出市の中心市街部は、遠浅の海岸を埋め立てて田畑や塩田を開発しながら海に延びた町である。近世初期の坂出村は聖通寺山から見て東は入海で、南は角山の麓まで、海潮が常に満干の状態であったというから、今の中心市街地は勿論、坂出駅も遠浅の海だった。
塩田のはじまりは、慶長7年(1602)播州赤穂からの移民が角山山麓に塩田を開いたことに始まる。その後、元和3年(1617)・寛永年間(1624〜44)にも移民が行われ、塩田が盛んになり内浜・北浜・中の浜・宗徳浜・東の浜の塩田ができ、内浜・新浜・須賀と云った集落が形成された。
塩田が産業の基盤となり、廻船業・干鰯仲買などの商家もできた。更に文政8年(1825)〜12年(1829)藩主の命を受けた久米栄左衛門が大規模な塩田(東大浜・西大浜の両塩田)を開き、新田の開発や港の築造を行い、町場としての急速な発展を遂げた。文政12年(1829)の家数300・人数1,000余人。
その後も文政9年(1826)に開始された、久米通賢による大規模な坂出墾田の完成で、町場が大きく発展した。また湊の沖湛甫(おきたんぽ)は天保10年(1839)に普請が開始され、7年を費やして弘化3年(1846)に完成し、後の港湾都市坂出の基となり、金毘羅詣りの船も着いて旅客も急激に増加した。
明治30年坂出駅が開設された頃は、駅は田圃の中で全く孤立していて、付近には何もなく付近は大きな溝渠(どぶ)であった。明治39年〜明治40年にかけて溝渠改修工事が始められ、道路も整備されて町筋の両側には商店や工場が建ち並び、現在の町筋がほぼ完成した。
昭和2年の琴平参宮電鉄、昭和5年の琴平急行電鉄の敷設と港湾の修築工事により、町の面目は一新した。3,000トン級の船舶の停泊が可能になり、商港として工業港として発展の一途をたどった。
今回の町並探訪で歩いた辺りは、全て江戸初期には海だったとは想像すらできない。明治・大正・昭和と栄えていた町並はアーケードで覆い被され、繁栄した証の建物が軒を連ねるが、どの家もシャッターを下ろしていて、見事なシャッター街を形成している。東西に南北に延びるアーケード街の外れた辺りの町並に昔の面影が残る家屋が点在していたが、かっての繁栄を思うと寂しさが漂う町並探訪だった。
町並指数  20
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和60年
  香川県の地名  平凡社  下中 弘  1989

元町3丁目の町並

元町3丁目の町並

元町3丁目の町並

元町3丁目の町並

本町2丁目の町並

本町2丁目の町並

本町2丁目の町並

本町1丁目の町並
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