佐川町の町並み 

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司牡丹酒造(株)横の景観
 高知県中央部、佐川町は酒造の町である。長宗我部元親が土佐を統一したのは天正3年(1575)、そして四国全部を平定したのが天正13年(1585)春だが、直後に、豊臣秀吉の四国征伐が開始され、土佐一国を領することで降伏をした。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、遠州(静岡県)から山内一豊が国主となって入国した。慶長6年(1601)土佐藩山内家の筆頭家老深尾和泉守重良は佐川一万石を与えられ、長宗我部氏の家臣久武氏の残した佐川城(古城山)に入った。以来、明治に至るまで、11代268年間この地に君臨した。
元和元年(1615)の一国一城令により、佐川城も取り壊され、古城山の東山麓に新しく広大な居邸を構えて、ここを国老庁の本拠とし、佐川様の「お土居」と呼ぶようになった。
佐川領一万石の陣屋町は寛文年間(1661〜73)までにはできあがり、整然たる陣屋町が出現した。
寛文12年(1672)の絵図では、「御土居は東向、東西壱町、南北は弐町」といわれ、土居を中心に集住の形態をとる家中町(武士町)で、土居谷及び谷口平地は士格家臣の専住地域であって、それは幕末まで崩れなかった。
現佐川駅前付近はその北端に当たり、その西を流れ永野川(春日川)に合流する磐谷川の小流こそ家中町と町人町を限る境界線であった。家中町の西に接する町人町の規模については、三反田町と西町間の東西240間、西町と古市町間の南北40間とある。中町・西町は藩政期を通じて、本町・上町・表町とも言われた中心街で、豪商の店舗が軒を並べていて、家中町と町人町の主要部を合わせた街区を「御郭内」と称し、厳密な意味での城下町域を云った。
このように寛文絵図では、地形と春日川をたくみに利用した軍事的拠点としての性格を色濃くもっていた。しかし反面、近世城下町にふさわしい整然たる街区をもつ町人町が形成されており、以後の経済的発展の原形が見られる。
佐川本村の延享3年(1746)の家数と人数は、家中家数166軒。町人町では町分168軒・郷分124軒で人数は町分686人・郷分492人であった。
そして安政・慶応絵図は元録絵図から一世紀半以上を経ているため、その間の時代的変遷を伝えている。新町・古市横町・西横町は既存の町名が確認されたにとどまるが、町人町の東北部にある今町・新丁は新しく形成された町である。古市町の北方にも市街地が延びている。東から西、次いで北上する狭長な現佐川市街地の原形は、江戸時代後期に形づくられたものである。
屋敷割りの規模は、三反田町から西町に至る表町が大きくまた不揃いであるが、これに対し古市横町・三反田横丁・新丁は小さく、殊に新丁は規格的である。
酒造業については、領主深尾氏が佐川に来たとき、旧領美濃国からお抱えの酒造り職を大勢連れてきたという。良質甘露の清水が湧いていたので、遠来の醸造技術と天然の甘露は融合して、古来岸屋の「菊の露」、入吉屋の「八千代」、鉱屋の「玉椿」など名醸が多く、広く知られていた。
今、佐川町の町並みを代表する司牡丹は、大正7年の竹村一族の「笹の露」(竹村貞次郎)、野菊(浜口駒次郎)、若柳、日の本(竹村源十郎)の四銘柄が合併して、「千歳鯛」の酒銘をもって、佐川醸造株式会社を創立したもの。「千歳鯛」の銘柄は他にあるため「司牡丹」と改名されたものである。
司牡丹には酒ギャラリー「ほてい」がある。司牡丹の古い看板や徳利などを集めたミニ博物館。酒器などの展示もあり、司牡丹の製品も販売されていた。
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参考文献    
  佐川町史  佐川町  佐川町史編纂委員会
  高知県の歴史散歩  山川出版社  高知県高等学校教育研究会  1996年
  四国小さな町小さな旅  山と渓谷社  山と渓谷社大阪支局  1999年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和61年

司牡丹酒造 

司牡丹酒造 

司牡丹酒造 

司牡丹酒造 

司牡丹資料館 ほてい

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