貞光町の町並み 
南町・北中町・南中町
地図


一宇街道南町の町並み
 二層卯建のある貞光町は、徳島市の西 約50kmの吉野川南岸に位置する。吉野川沿いの商家の卯建は袖卯建であるが、脇町は寄棟卯建、貞光町は二層卯建、池田町は切り妻卯建と少しずつ異なる。
南北朝時代から約210年間にわたって細川家が阿波国を支配した。天文21年(1552)細川持隆が重臣三好義賢によって殺害され、以来、土佐の長宗我部元親の阿波侵入まで、約30年間阿波は三好義賢によって支配された。
天正3年(1575)から土佐 長宗我部元親の阿波侵略が始まり、10年かかって阿波全土を従えたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐で土佐へ追い返され、阿波は秀吉の家来蜂須賀家政の領地となった。
藩主 蜂須賀家政は特産物の保護奨励に意を注ぎ、新田開発にも力を入れて藩の収入増加をはかった。平地では藍作と稲作、山間では煙草栽培が奨励され行われた。こうして換金作物は平地では藍作、山地では煙草となり、貞光の町も在郷町としておおいに発展した。
貞光の吉野川川辺には良い船着き場がなく、吉野川の水運には恵まれなかったが、一宇、祖谷山などから物資の運搬に、今日の貞光の本町通りである一宇街道が利用され始め、山村の産物である煙草、紙、茶のどの商品作物と農具や塩・油のどの生活必需品を商う在郷町として発展した。
江戸中期頃から一宇街道沿いに本格的な町造りがはじまり、商家が軒を並べるようになり、脇町と並んで二大商業地を形成した。
同じ在郷町でも、脇町は脇城が一国一城令により、城下町が衰退して在郷町として残ったものであるが、貞光は農村が流通経済によって、自然発生的にできた町である。この二つの違いは町割りによって区別できる。
城下町では領国における軍事的拠点であるため、道路にT字型、枡形、曲り、屈曲などを入れて、軍馬の疾走、弓矢・鉄砲の射通しを避けた。脇町でも城下町の特徴が至るところで見られるが、貞光町では一宇街道沿いに町が開けており、殆ど見通しのよい直線道であり、脇町の町割とは全く異なっている。
貞光の町造りの大半はこの道路に沿って進められた。松尾神社から南700mの道筋に、今なお卯建を上げた建物が38棟も残されている。徳島県下で卯建の町並みといえば、脇町南町通りや、池田町本町通りと、ここ貞光町本町通りであるが、貞光町の卯建には大きな特色がある。
それは脇町南町や池田町本町に見られる単層の袖卯建と違って、二層になった袖卯建を上げていることであり、その数は38棟中15棟であり、貞光の町並みを個性あるものにしている。本来卯建とは、防火壁として屋根の両側に上げておき、近隣の火災のときに延焼を防止する役割がある。しかしここ貞光、脇、池田の卯建は全部袖卯建で、防火機能が薄れた装飾性の強いものである。
貞光の「二層卯建の町並み」は脇町の卯建の存在が大きく影響しているようだ。貞光と脇町は同時期をともに栄えた。貞光の商人たちは脇町より建築が少し遅れた分、より華麗で豪華な卯建を考えた。
そして、「二層卯建」を生み出した。建築時期が遅いだけに、二階の階高が高くなったことも大きく影響している。より贅沢に、より華麗にと装飾はエスカレートし、個性的な鏝絵までも彫り込まれた。
公開している卯建の商家がないので、食事に入った食堂の卯建の建物を紹介する。江戸末期の建物で、屋号を「かね百」といい、元は肥料問屋であった。袖卯建は単層だが卯建に鏝絵細工が施されていた。入り母屋造り、本瓦葺きの中二階建、平入り、漆喰で装飾した三連の窓が印象的であった。
こうして貞光は脇や池田とはひとあじ違う、独自の町並みを形成していくことになった。ただ、貞光は二層卯建の町並みが、商店街であるがゆえに、無秩序な電柱や電線、店の看板が立ちはだかり、折角の個性的な二層卯建を見にくくしている状況にあるのが悔やまれる。
町並み指数 50
参考文献    
  貞光伝統的建造物群調査報告書  貞光教育委員会
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和61年

重層卯建の町並み

町並み
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