大洲市の町並み 
大洲
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志保町の町並み
  大洲は愛媛県の西部に位置する伊予の小京都。鎌倉時代の末から宇都宮豊房が、岳城(大洲城の旧称)を築いて後は、8代豊綱まで約200年間宇都宮氏が代々この城を継いだ。天正13年(1585)の秀吉の四国征伐で、小早川隆景の軍門に下った。
そして小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治と領主がかわり、大坂の陣後、加藤貞泰が伯耆米子から大洲6万石に封ぜられて入城し、明治の廃藩まで加藤氏13代の治めるところとなった。なお、この地を大洲というようになったのは、2代宇都宮泰興の万治元年(1658)からで、それまでは大津といっていた。
近世城郭としての大洲城の基礎が固められたのは、戸田、藤堂、脇坂の時代とみられている。城跡の真下を肱川が流れ、規模は大きくないが天然の要害を巧みに利用している。寛永4年(1627)の幕府隠密の「讃岐伊予土佐阿波探策書」によると「本丸が山上に、山下は二の丸で8つの矢倉をもち、三の丸は城の南から東にカギの手に武家屋敷があり、町は三の丸の北に南北長さ三町三筋があり、町家は400ばかり」と記されている。
寛永20年(1643)の「大津総町中之絵図」によると本町や中町、裏町(末広町)は現在と殆ど変わらず、肱川と平行して東西に町筋があり、この町並みを横断する南北の通りが、東から塩屋町、上横丁、下横丁であった。なお、塩屋町は慶長10年(1605)に藤堂高虎が、塩売買のため城下町のうち最初に建設させた町であった。
当時の町家はいずれも街路に面して間口2間から4間、奥行き8間から15間程度のものが多く、平均して約40坪ぐらいである。町家特有の短冊型の地割で、全体として格子型になっていて、相当の賑わいをみせていた。慶安4年(1651)の町家は302軒であった。
江戸時代の終わり頃の「大洲町内図」によると、町家の総戸数は343戸で飲食店、たばこ屋、酒屋、米屋、八百屋、呉服屋、万屋、薬屋、油屋などが軒を並べ繁昌していた。
城下町の中心の肱南地区は、行政や文化施設が集まっているが、背後に山がせまり、前には肱川があることから、市街地の発展がせばめられ、その町並みは城下町の歴史的なたたずまいを多く残している。
肱南地区の東の端にある志保町(元は塩屋町)は、大正の初め頃までは肱川左岸の渡し場をもち、明治の浮亀橋時代には名実ともに大洲の中心街で活気に満ちていた。木蝋屋、生糸製造元、問屋、料理屋、みやげ物屋などが道路沿いに軒を並べた町人町で、大変に栄えていたが、大正2年に浮亀橋からやや下流に肱川橋が完成すると、人や物資の交流は肱川橋通りに集中し、商業活動の中心もそこに移ってしまった。
そして志保町の商業活動は衰えたが、今でも白壁や土壁の土蔵が残っていて、昔の面影を偲ばせている。表通りには格子をつけた商家がひっそりと並んでいた。「おはなはん通り」はそんな中にあった。「おはなはん」は昭和41年から一年間NHKテレビドラマで放映された。この辺りで生まれた女の子を主人公に、この辺りで撮影されたものだ。
「明治の家並み」と呼ばれる比地町もおはなはん通りと同じで、白壁や土壁の土蔵が昔の面影を残している通りである。
町並み指数 50
参考文献    
  肱川  愛媛県文化振興財団  横山昭市  昭和63年
  愛媛県の歴史散歩  山川出版社  愛媛県高等学校教育研究会  1996年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和56年
  四国小さな町小さな旅  山と渓谷社  山と渓谷社大阪支局  1999年
  町並み・家並み事典  東京堂出版  吉田桂二  平成9年
  大洲市史  大洲市  大洲市史編纂委員会

志保町の町並み(明治の町並み)

志保町の町並み(明治の町並み)

「おはなはん通り」の町並み

志保町の町並み

「おはなはん通り」の町並み

志保町の町並み
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