仁淀川町池川地区の土居は高知県北西部、仁淀川の支流池川川に、更に支流の土居川が合流する地点に形成された集落。近世は池川村とよばれ、土居は池川村の一集落であった。 池川村の江戸期は土佐藩領。 池川村の村高は、寛永地検帳290石余、寛文7年(1667)の郷村石付きでも同高、寛保3年(1743)の郷村帳290石余、「天保郷帳」440石余。「土佐州郡志」では、村の規模は東西2里15町・南北3里28町と大きな村で、小村別の家数で土居は60余とある。 寛保3年(1743)の郷村帳によると、家数282・人数1,706、猟銃53、牛2・馬134。 当地一帯は水田が少なく、焼畑での雑穀生産に依存したが、換金産業として和紙生産が盛んであったが、藩財政圧迫のため宝暦2年(1752)には御蔵紙・平紙の制度が敷かれ、隆盛に向かっていた手漉き和紙生産農家の、和紙生産と販売に厳しい制約が加えられ始めた。そして天明7年(1787)には池川郷の農民601人が伊予松山藩領久万村に逃散する事件がおこる。 池川村は松山街道の宿場町として発展したものある。松山街道は高知と松山を結ぶ最短距離の街道で、松山城下から久万までは今の国道33号線とほぼ同じで、久万からは現在の愛媛県県道12号線に入り、国道494号線で池川に出て、国道439号線で大崎経由で国道33号線で高知高知城下に向かう。 松山街道が通っていたので、村のの中心地池川土居はその宿駅として賑わい、近郊の在町としても機能jしていたのだろう。 池川土居の明治24年の家数112・人数546とあり、地内に池川村役場が設置されたほか、明治20年代から旅館や商店などが営業を始め市街化してきた。集合バスも運行され賑わいを増し、昭和45年には池川土居の家数347・人数1,087を数えたが、その後急激に過疎化が進み商店街は寂れて行った。 今、町並は昭和初期の賑わいを残してひっそりと佇んでいる。商店街の形態を残しているが、営業している店は点在する程度で寂しい商店街である。建物は明治から昭和初期に建てられたものが殆どを占めていて、切妻造り平入り2階建ての家屋が連なっていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 日本の地名高知県 平凡社 下中邦彦 1983年 |
土居の町並 |
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