西海町外泊は愛媛県の最南端、美しい変化に富んだリアス式海岸の、内海と外海をもつ船越半島の中間で内海に面して位置する漁業の集落である。 外泊は県指定の「文化の里」、石垣の村として全国的にも有名である。かってイワシ・カツオ漁で繁栄したところであるが、開発から取り残され、今では石垣集落としての面影が良く残されている。 幕末のころから、経済力が上昇した中泊部落の次男・三男の分家問題解決策として、とりあえず隣の浦、外泊を開発したものでる。 明治12年の外泊浦の戸籍によると、戸数47戸・人数198人、男106人・女92人となっている。その内次男、三男、四男が半数以上の65%を占めているから、この分家問題が深刻だったのだろう。 本家部落から外泊に行き、まず第一に谷川を治水し傾斜地に石垣を積んで開拓・開墾したのだろう。畑を造り屋敷もきり開いた。今、残っている防風石垣も、中泊部落の防風石垣をまねて築いたもの。 比較的海から吹く潮風の弱い中泊は、増改築に伴って防風石垣を取り除いていったが、北西風の潮風で苦しめられ続けたた外泊は、取り除くことができず、今に民俗資料として残っているのである。 豊後水道を北に臨み、急斜面に並ぶどの家も高い石垣と防風石垣で囲われ、冬の厳しい季節風や潮害から守られている。中泊を模した石垣築造技術は元録年間の頃から使われていたらしく、当時の人々の生活の知恵がうかがえる。 石垣集落に足を踏み入れると、迷路のように路地が分かれており、高さ数メートルにも及ぶ石垣の壁が威圧感を与える。石垣の石は傾斜地が造成されたときや、裏山や横の山で畑を開墾したときに出てきたものであり、特別大きいものはない。 路地によって一区画を区切り、一区画はおおむね四つの屋敷で構成されていが、そのなかの一つの屋敷は菜園になっていて、他の三つの屋敷に三戸が生活している。昔からの共同生活体としての知恵だろう。 個々の建物は、防風、防潮のため高い石垣の中に建てられ、平屋の軒屋根は石垣を覆うように造られている。そして海に面したところに台所が置かれ、台所の窓の部分は石垣を低くしてあり、採光と風通しと同時に食事の支度をしながらも、湾内が見渡せ船の出入が判るようになっている。 明治初年以降、100年を過ぎても外泊地区の世帯数、人口の移動は殆どなかった。生活に対して土地の条件がギリギリであるためである。これは次男以下が、開拓当時からこの地に留まれなかったことを意味する。今はハマチの養殖や釣り客相手の民宿などでの生活だが、過疎化は避けられず、この石垣集落を観光にどう結びつけるかが、これからの課題である。 愛媛県の歴史散歩 山川出版社 愛媛県高等学校教育研究会 1996年 西海町史 西海町 西海町史編纂委員会 |