香川県の西部観音寺市の北に位置する仁尾町は、ミカンと塩田の町として知られてきた。ミカンは明治23年浅野多吉が紀州ミカンを導入、県下で最も早く栽培が盛んになったところである。 仁尾の塩田は天保5年(1834)塩田忠左衛門が創始したとされる。大正8年仁尾塩田株式会社が設立され、大正・昭和と50年にわたり、この町の基幹産業として栄えてきたが輸入塩とイオン交換樹脂膜製塩法の発達により、昭和47年に仁尾塩田は姿を消した。 仁尾の町の東に城山と呼ばれる丘の上に、覚城院(真言宗)という寺がある。寺に上る石段の脇に仁尾城跡の石碑がある。戦国時代この山に細川頼弘の仁尾城があったといわれ、そのころに城下町として急速な発展をとげたという。 天正13年(1585)年豊臣秀吉により四国平定が行われた。そして豊臣秀吉により、天正15年(1587)には15万石で讃岐に入ってきたのは生駒親正である。親正は高松城を築城し、高松に城下町を形成したのが、現在の高松である。 親正は慶長2年(1597)には丸亀城を築き、ここで親正の子一正が西讃岐を治めたはじめた。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、生駒親正は西軍、子の一正は東軍に属し、子の一正が生駒家を継いで高松に入り、元和元年(1615)の一国一城令により、丸亀城は取り壊されてしまった。その後、生駒騒動を起こして、寛永17年讃岐追い出された。そして寛永18年(1641)に山崎家治が丸亀に入封し西讃を治め、次ぎの年に松平頼重が東讃に封じられた。これ以後讃岐は高松、丸亀の二藩に分かれて明治維新まで統治されることになった。 丸亀に移ってきた山崎家治は、廃城となっていた丸亀城の再建に着手し2年がかりで完成させたが、現在見られる見事な石垣もこの時に修築されたものである。だが山崎家も三代でお家廃絶となり、京極高和が万治元年(1658)に竜野より丸亀へ移封となり、丸亀領主となった。以後明治維新まで、約200年西讃地方の領主であった。 丸亀藩領の仁尾村の戸数・人数は嘉永元年(1848)の丸亀藩の「西讃府志」によれば、戸数1122軒・人数5510人であった。 普門院前広場に高札場があり、付近に菊屋などの庄屋があり商業の中心地だった。仁尾のように石垣を巡らした屋根付きの高札場で現存しているのは、全国的にも珍しく貴重な札場である。 仁尾村は中世から産業として漁業・水産業・中継交易が多く、瀬戸内海の海上交易に従事するものが多く、文化11年(1814)藩主京極高朗の領内視察記録に「戸数千余り・豪買富人多きところなり」としるし、この外にも、「千石船見たけりゃ仁尾へ来い」と云われた。 江戸時代の産業については、当地では酢・酒・醤油などの醸造業や茶商売などの商工業が栄えた。茶は元禄年間頃から土佐国より買い入れ、仁尾茶として丸亀をはじめ讃岐一帯・瀬戸内海沿岸広く販売され好評を博していた。江戸末期には茶商家18軒があり盛況であり、仁尾の酒・醤油などのほとんどの大店が、この茶の販売を兼業した。 そして仁尾は、江戸時代寛政から幕末までの80年間は、西讃の商工業の一中心地として多くの酒・醤油・酢などの醸造元・搾油問屋・魚問屋・肥料問屋・茶問屋などの大店が軒を並べ活況を呈していた。 こうした大店の豪商たちも、明治に入ると大部分は急速に傾いて没落し、現在では殆ど跡形も残っておらない。それは幕末に大災害が多く発生し、財政難に陥った丸亀藩では藩の銀札を濫発したため、銀札の価値が大きく下落した。また土佐茶の取引で使用していた、土佐藩札も価値が大きく下落したのがその原因である。 香川県の歴史散歩 山川出版社 香川県の歴史散歩編集委員会 1996年 仁尾町史 仁尾町 仁尾町史編纂委員会 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |
造酢会社の蔵 |
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大店の豪商屋敷 |
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