鳴門町高島は徳島県の北東部、大毛島の西部に位置し江戸時代から塩田製塩の盛んな地域であった。元々は西部の竹島、中央部の高島山の地域、東の中島の三つの島からなっていたようだが、砂州や干拓によって、塩田になって行ったようだ。 この地は川の流入が無く、海水の塩分濃度が高いため、塩田が設けられ集落が形成され、鳴門製塩業の中心地として栄えた。島中央部に集落が密集しており、住民の殆どが製塩業に従事していた。 慶長3年(1598)淡路国三原郡から孫左衛門・五郎右衛門が渡来し、撫養城主益田大膳の許可を得て塩田を築き、集落が形成されたという。撫養塩浜12ヵ村の中でも塩田の面積・生産高・品質ともに最高であり、この地方の製塩の中心地であった。 「阿波志」では家数334。明治9年の家数550・人数2,384・船109(日本形50石〜20石積荷船11・50石未満荷船82・漁船8・渡し船8) 昭和に入って、製塩法の技術革新が行われ、昭和28年度から塩田の入浜式製塩が流下枝条式製塩へと切り替わり、昭和41年にはイオン交換膜樹脂法が採用されたため、広大な塩田は不要となり、塩田従業者も失業することになった。 今回この高島集落を訪ねる前に、塩田公園横にある塩田屋敷の福永家住宅を訪ねた。 主屋・離れ座敷・土蔵納屋・塩納屋など国の重要文化財に指定されている。それよりもこの塩田公園近くの土地は未だ道路整備がされたままの空き地状態であったのにはびっくりした。旧塩田だった面積は膨大で、公園になったり、住宅地として開発されたり、鳴門教育大学ができたりしているが、それでも多くの土地が空き地のままになっている。 さて、旧塩田地帯の中央にある古くからの高島集落内を歩くと、細い道に沿って本瓦葺きの家屋が多く見られる古い町並みを展開していた。これらは全て塩田主や塩田従業者としてこの地で暮らしていた人々の家屋で、漁村集落と余り変わらない様相である。無住の家も多く見られるが、その一方で1998年に開通した小鳴門大橋によって、鳴門市街や徳島市街への通勤圏となり、ベットタウンとして住宅開発も進んでいる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 徳島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2000年 |
鳴門塩田公園内の塩田屋敷 |
塩田屋敷の福永家住宅 |
鳴門町高島の町並み |
鳴門町高島の町並み |
鳴門町高島の町並み |
鳴門町高島の町並み |
鳴門町高島の町並み |
鳴門町高島の町並み |