鳴門は四国の中で地理的に最も京阪神に近く、古くから四国の玄関口として栄え、江戸末期までは阿波国第一の港であった。 今回訪ねたところは江戸時代には郷町に指定されていた、商業活動が盛んなの撫養南浜・撫養斎田・撫養林崎などである。撫養川に沿う、林崎・斎田・南浜一帯は阿波国と淡路国を結び、また大坂方面を結ぶ航路の渡海港として撫養湊とよばれていた。四国遍路の通行に利用されるほか、藍や塩・煙草・砂糖の積み出す商業港としても栄え、藍作に必要な干鰯や米を積んだ他国廻船も多く出入りして活況を呈していた。更に撫養街道や淡路街道も通る大変栄えた郷町で緒問屋・緒商人も多くなり繁昌したところだった。 江戸時代はじめより撫養で塩業がはじまり、次第に塩田が増加し塩方代官も置かれた。この地で生産された塩は「斎田塩」と称されて、江戸・大坂を中心とする全国市場に積み出された。 土佐国を含めた吉野川上流で伐採された材木は、川下りされて撫養口に集められたていた。 斎田村は「阿波志」によると家数379。「鳴門辺集」によると家数600余。南浜村は文化6年(1809)の棟付帳によると家数620・人数2,433。林崎村は宝暦期(1751〜64)頃には家数200余り。「郡村誌」によると家数349・人数1,582とある。 南浜村と斎田村の間、東西にに通る淡路街道(撫養街道と重なる)に沿ったところを四軒屋町といい、この辺りに一番多く緒問屋や緒商人が居たようだ。 今、古い町並は旧撫養街道沿いに展開している。特に南浜地区に連続した古い町並が残っていた。切り妻造り平入りで、中2階建てが多く、中には卯建や袖壁・千本格子を備えた家、虫籠窓を残した家、鏝絵をつけた家まであった。林崎地区には連続した町並みは残っておらなかったが、伝統的様式の広大で重厚な豪商の家が点在していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 香川県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989 香川県の歴史散歩 山川出版社 香川県歴史散歩編纂委員会 1996 |
撫養南浜蛭子前西の町並み |
撫養南浜蛭子前東の町並み |
撫養南浜蛭子前東の町並み |
撫養南浜蛭子前西の町並み |
撫養南浜蛭子前西の町並み |
撫養南浜蛭子前西の町並み |
撫養林崎北殿町の町並 |
撫養林崎北殿町の町並 |
撫養林崎北殿町の町並 |