直島町の直島本島は瀬戸内海の備讃瀬戸の最狭部に位置し、高松市の北方約13km、岡山県玉野市の南西約5kmに所在する。 鎌倉時代の中頃は近衛家領であったが、戦国期から江戸初期は羽柴秀吉の備中高松城攻めに功のあった高原氏が領主であった。寛文12年(1672)以降は幕府領となり、主として倉敷代官所の支配であった。 延宝5年(1677)の「直島納方其外小物成帳」によると、家数は宮之浦10戸・58人、高田浦(本村)200戸・858人、積浦10戸71人、風戸浦4戸・24人、向島5戸17人の合計229戸・1,028人となっていた。 延宝期(1673〜81)すでに直島では270石以上620石積の廻船を19艘所有していた。主として北国筋・日本海方面に進出していたようで、御蔵米・城米などの領主米の廻送を主としていた。 寛文12年(1672)西廻り航路が開発されて、幕府の御蔵米が瀬戸内海を通って江戸に運送するようになった時、造船技術と航海術の優秀さによって、塩飽とともに直島の船が幕府に直接雇われて、直雇直送方式になった。 しかし享保5年(1720)に幕府が、商人請負方式に方針変更したため、次第に直島の船は減少し衰退したが、航海技術の優秀さにより、他国廻船の船主や大坂商人・江戸商人に雇われて、北前船をはじめとした廻船の買積みに係った。 漁業は延宝5年(1677)の漁船数は35艘あり、鯛・いかなご・まながつおなどを獲っていた。規模も大きくないが塩田を持ち製塩も行われていた。 さて、直島町本村について 本村は直島本島の東部に位置する。本村は明治期から現在までの通称地名であり、江戸期には高田浦という通称地名であった。 前述の高原氏が近世初頭に実施した町の地割が、そのまま今の集落の基幹となっている。 寛文12年(1672)の家数175・人数893、延宝5年(1677)家数200・人数858、明治36年家数189・人数976。高田浦は良港で知られ、廻船業と漁業で繁栄していたが、御蔵米の運送方法の変更により直島の廻船業は衰退していったが、他国廻船の船主や大商人に雇われて、航海技術や造船技術は受け継がれていった。 今、本村地区を歩いてみると、ベネッセアートサイト直島を訪ねた観光客が、三々五々集落内を闊歩している。この本村地区は「家プロジェクト」の施設が集落内のあちこちに散らばっているので、それを訪ねるために観光客が地図を片手に集落内を歩いている。それも外国人が多く、集落内の写真を撮るのもチョット通り過ぎるのを待たないとダメと云う場面が多かった。 集落内は港町・漁村の様相であり、本瓦葺の大型家屋も見られ、黒板塀で囲われた民家の集落風景が展開していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 香川県の地名 平凡社 下中 弘 1989 |
直島町本村の町並 |
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