高知市の東約50kmの安芸郡の中央部、奈半利川河口の東部、奈半利川氾濫原上の自然堤防と海岸砂丘部分に人家が集中している。 奈良期の養老2年(718)に指定された官道が、阿波から土佐へと通じた道がこの奈半利を通っていたと思われ、土佐日記にも紀貫之が承平5年(935)奈半港に一泊したと記載されているほど、開けて土地であった。 江戸時代を通じて土佐藩領で、海岸沿いの漁業集落と戦国時代末期に館を構えた長宗我部元親の武将桑名丹後守の土居を中心に形成された街区とから成るが、江戸時代には漁業集落の浦分支配であった。 また、奈半利は阿波国へ通じる要衝で、室戸岬を経る土佐東街道と、野根・甲浦(現共に東洋町)に直接通じる野根山街道の分岐点でもあり、野根山街道は参勤交代にも利用された道であった。 .奈半利湊は中世からの沿岸航路の要港で、甲浦(現東洋町)と並んで廻船の湊とされ、兵庫津に入港した廻船名に「なわり」の船籍の船が多く記されている。 寛文頃(1661〜73)より所謂、寛文改替の自由化策で上方市場への保佐木積み出しが活発となり、天和3年(1683)の浦々水主船数定書では奈半利浦に八反帆以上の大型船が42艘とあるが、奈半利川西岸の田野浦には60艘、特に10反帆以上は奈半利浦9艘に対して、田野浦39艘とある。 元禄期(1688〜1704)に入り、保佐木(薪)ブームも大きく後退した。それは上方問屋の買い叩き、乱伐による山林資源の枯渇、藩の山林統制等が災いしたが、それ以上に大きく災いしたのは、奈半利湊が土砂の堆積で大きな船が通じなくなったことにある。以後廻船は復活せず漁業中心の集落となった。人々は湊の機能が維持できた対岸の田野浦の廻船に雇われていた者も多かっただろうと想像できる。 それを家数や人数でみると、「土佐州郡志」では「浦西有港、水涸則不通船」と記し、家数374に対し船数艘とある。そして寛政3年(1791)の浦分改帳には奈半利浦の家数99・人数851とあり、「土佐州郡志」の4分の1に激減している。 奈半利浦の船は網船13・釣り船5で廻船は無いが、隣の田野浦が廻船を12艘を所有していた。 浦の常として近世を通じて津波・洪水・火災にも度々見舞われ、その度に人命・家財が失われ、漁船・漁具・保佐・材木などを奪われて、暮らしにとって痛い打撃となっている。 昭和7年には六本松に奈半利貯木場、昭和9年には全長50kmの森林鉄道奈半利川線が完成、奈半利町は以前にも増して木材取引と製材の町として活況を呈した。昭和35年に森林鉄道は廃止されたが県道が整備され、トラックで運び出された木材は、第2次大戦後に築かれた奈半利港から船で積み出された。 今、古い町並みは旧土佐東街道に沿って展開し、その北側と南側の集落全体に亘って古い家屋や伝統的な様式を備えた家屋が点在している。かって木材集散で活況を呈した証であろう。中2階建て・切り妻造り平入り、水切り瓦の設置が標準的な伝統的様式のようだ。中にはナマコ壁の土蔵もあり土佐東部の特徴をよく表した町並みを展開していた。 特別古い建て物は無いようで、殆どが江戸末期から明治・大正時代に建てられたものが多い。奈半利町ではその中でも登録有形文化財に指定した家屋に説明板を設置して説明されていた。浜田家(増田屋)・西尾家・濱田家・斎藤家・森家・野村家などがあり、水切り瓦の見事な濱田家が印象に残った。 その他、この地区には「石ぐろ」と呼ばれる自然石を埋め込んだ塀があり、この「石ぐろ」塀だけを掲載したページを造ったので参考に見て下さい。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 日本の地名高知県 平凡社 下中邦彦 1983 |
乙の町並み |
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