室戸市吉良川の町並み 
吉良川町(中町・東町・西町・上町)
地図


浜地区の町並
  室戸市吉良川の集落は、室戸岬から高知市に向って海岸辺を約15km走ったところにある。海岸沿いを走る国道55号線より一本山側の道が旧土佐街道で、この街道に沿って古い町並みの浜地区が、そこから山側の地域に農家だった丘地区の町並みが広がる。
関ヶ原の戦い後、ここ吉良川は山内一豊の土佐藩領となり、安芸城には家老の五藤氏が入城した。安芸国は明治維新まで五藤氏の所領であり、吉良川地区は田中家が代々庄屋を、安岡家が年寄の役を命ぜられていた。
浜地区を通る旧街道は、高知、室戸を繋ぐ街道として整備されており、道幅は5〜6m未満である。この街道の両側に短冊型屋敷が並び、両側町を形成している。各戸の主屋は街道に面しており、主屋の建物は町家である。
丘地区の道路幅は4m未満が殆どであり、敷地割りにも個々別々で一定の規格はない様である。丘地区の屋敷では、周囲に塀を巡らしており、主屋も農家に見られるものである。塀には当地で「いしぐろ」と呼ばれる石垣が多く用いられている。このような性格の異なる二つの地区が、一つの町並みの中に共存していることが吉良川の町並みの特徴である。
吉良川の町並みの形成については、寛政6年(1794)と推定される「土佐国沿岸絵図」では、浜地区・丘地区の二つの地区に50数戸の人家が描かれている。文献では、寛政3年(1791)の「寛政三年浦分改帳」では、家数41軒、人数249人となっている。また現在の道の構成の殆どは、もうこの時期に整っていたようだ。
寛保3年(1743)の郷村帳では戸数396軒・人数1609人、明治24年の戸数848軒・人数3667人となっている。
近世の早い段階で東西に繋がる旧街道が浜地区に整備された。街道の両側に計画的な屋敷割りが施され、それが今、我々が目にする町並みであり、江戸末期から明治期にかけて形成されたものである。
吉良川は備長炭の産業で栄えたといわれている。明治時代に入り木炭の需要が増え、明治10年頃から吉良川で木炭の生産が始まった。そして大正時代に入り備長炭の製法が伝わり、木炭の品質は向上、市場価値を高め、日本の代表的な備長炭の生産地となった。
大正年間から昭和初期にかけて吉良川の繁栄の頂点を迎えた。良質な備長炭が生産され、海路京阪神へ移出され、帰路には日用品などの雑貨を積みかえった。
こうした備長炭の廻船交易によって吉良川に繁栄がもたらされ、人々は競って家を建て直した。吉良川の伝統的建造物も殆どが明治から大正にかけて建築された家屋である。
吉良川では幕末〜明治にかけての広域的な被害は記録されていないのに比較的建物が新しい。もともとあまり耐久性のない住宅が建てられていたこと、また明治〜大正期に吉良川が経済的に繁栄し建て替えが進んだことの2点が考えられる。
吉良川の商家の建物は中2階建て、切り妻造り、平入り、桟瓦葺で、漆喰塗り込めの虫籠窓、水切り瓦を備えたものである。外壁については、@ 幕末から明治初期と推定される家などは下見板張りで、A明治中期以降のものは漆喰で壁を塗り込め、水切り瓦をつける技法、B マナコ壁にしたもの3種類に分けられる。
また、妻側の壁にレンガを使用したものも4棟あり、明治末〜大正という時期に限られている。短い時期に流行したものと思われ、こうしたレンガは吉良川の周辺で焼成されたものでなく、阪神地方へ向った船が帰りに積んで帰ったものものだろう。
町並み指数 60
参考文献    
  吉良川重要伝統的建造物群保存調査書  室戸市教育委員会
  四国小さな町小さな旅  山と渓谷社  山と渓谷社大阪支局  1999
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和61年

浜地区の町並み

浜地区の町並み

浜地区の町並み

浜地区の町並み

丘地区の町並み

丘地区の町並み
古い町並みへ戻る