室津港は江戸期には鯨漁・鰹漁の港として栄えていた。室津は江戸時代を通じて土佐藩領であった。 関ヶ原の戦い後、土佐に入った山内氏にとって、室戸岬廻りの航路は参勤交代・材木の輸送・国産品の上方運搬にとって重要であったが、その荒波は「土佐日記」にも見られるように、難破、遭難、退避の苦難の道のりであった。 江戸時代の初め津呂湊・室津湊の開削は、最蔵坊・野中兼山・一木権兵衛らの努力により成功し、湊近くの集落には人が集まり大集落になり、鯨漁を含む近海・沿岸漁業が発展を遂げ、現在の遠洋漁業の基礎が作られた。 江戸期に栄えた室津湊も、中世には寂しい寒村の湊であったようだ。その理由は江戸期になって盛んになった佐保木の運び出しが当時は無く、上方との結びつきが薄かったのが原因と考えられている。 最蔵坊は室戸岬付近の難破による人命・財産の損失を嘆いて、元和4年(1618)に津呂・室津両港の開削を藩に申出て、試掘が行われた。その後野中兼山により断続的に開削工事が行われたが、大規模なものでなかった。地震の度に隆起が起こり、寛文年間(1661〜73)の中期頃から船の出入りが困難となってきた。そこで兼山の失脚後に、郷士一木権兵衛を普請奉行に任じ、本格的な大工事が行われ、入口を塞いでいた岩を取り除き、大型船の入港が可能になった。 港の拡張・開削とともに港近くへの人家の集中がはじまり、鯨漁・鰹漁の港、参勤交代の避難港となり、室津には多くの水主・問屋商人などが移り住んできて、水産都市室戸の基礎が造られた。 だがその後も、地震により港口が隆起し、何度も浚渫を繰り返さねば成らなかった。 「土佐州郡志」によると津寺村を含んで室津村は家数22、室津浦は家数100とある。寛保3年(1743)の郷村帳によると家数272・人数1,262。寛政3年(1791)の浦分改帳によると室津浦の家数は87・人数411とあり、天保年間(1830〜44)の浦々諸縮書には家数102・人数559とある。 江戸期には捕鯨基地、鰹漁の港として栄え、明治以降も鰹・鮪漁業が盛んで、遠洋漁業の基地となっていたが、第2次太平洋戦争後、遠洋漁業の基地は静岡県や神奈川県に移り、今は沿岸漁業の地になっている。 遠路遥々と室戸市室津を訪ねたが、人家より遥かに下に海面を持つ室津港の特異なのには驚くが、伝統的な家屋の町並みが無い。奈半利や吉良川の集落で多く見た水切り瓦の壁面を持つ家も少ない。 かって漁師等が住んでいたと思われる港の近くの高台は、遠洋漁業の船乗達の帰港した時の歓楽街であったようだが、今は遠洋漁業もなくなり、歓楽街だった当時の面影の濃く残る町だが、古い伝統的な家屋は殆どなかった。そんな中で港に面して只一軒だけ赤レンガ塀に囲まれ、水切り瓦を備えた伝統的な様式の家屋があったが、既に無住で何時取り壊されても不思議でない家屋が残っていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 日本の地名高知県 平凡社 下中邦彦 1983 |
室津の町並み |
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