出羽島を訪ねるために牟岐町に着たが、連絡船までの時間があったので、中村・牟岐浦を訪ねた。牟岐浦の江戸時代は徳島藩領に終始している。寛文4年(1664)の高辻帳では枝村に河内村・辺川村・橘村・灘村・川長村・中村・内妻村・喜来村・赤水村・関村・奥内妻村・東牟岐浦を含んだ石高で示されている。文化年間(1804〜18)の「阿波志」では家数353・人数1,550とある。地内は牟岐川の東岸が東牟岐浦、西岸が西牟岐浦に分かれ、文化9年(1812)の棟附帳によると、東浦の家数104・人数490。西浦の家数186・人数851とある。 明治9年の戸数534・人数2,367であり、民業の殆どは漁業で生計を立てていて、商業と工業は僅かであった。漁獲した魚は自他府県へ、鰹節・布苔は大坂・徳島へ送られていた。 この牟岐漁港の沖4kmに出羽島がある。島の港口は北に開き、港の周囲に人家が密集して町の様相である。島に人が住み着いたのは記録の上では寛政12年(1800)に牟岐の組頭庄屋青木伊助が郡代の命により、牟岐浦の三守・鳥見・小松・青木・島田の5氏を移住させたことにはじまると云われる。しかし、これより以前から島には何人かの島人が居たようだ。 藩による諸役免除や、租税の半額・漁具貸与といった保護政策により、移住がはじまり寛永元年には50戸、明治初年には80戸、大正14年には149戸、昭和9年には166戸・約800人までに発展した。 今、牟岐の町並を歩くと中村・牟岐浦には大きくて重厚な商家の建物が点在していた。 入り母屋造り本瓦葺きの平入りの建物で、中2階たてだが虫籠窓もない珍しい建物もあり、漁業を中心とした町だが、漁師ばかりでなく豪商と云われる商人も存在していたのが判る。 出羽島は連絡船が着いた所がもう町並である。この町並はミセ造り(ぶっちょう造り)と云われるもので構成された町並である。上下に開く戸板が庇と縁台の役目をしている。一般的には上部は蔀戸、下の縁台は「ばったり」と呼ばれているものだ。各家に備わっていて、降ろしてあったり揚げてあったりといろいろだが、この漁師町を特徴付けているもので、これだけ多くのミセ造りの建物が連続しているのは見たことがない。 また、この島には自動車が一台もなく、荷物の運搬用に家の前には手押し車が置かれている。これもこの町並を特徴付けている物の様だ。自転車は見かけたがバイクは見なかったように思う。 港の周囲の町並を全て見て歩いても20〜30分もあれば十分な小さな漁村集落。昭和40年代には約800人いた島民も、今では約170人と戸数では90軒まで減ってしまい、深刻な過疎化と高齢化が進んでいて、無住になった家も多く見受けられる。 漁船のエンジン音以外は音のない静かな町。町並の東側にある防波堤に登ると牟岐の町並が遠くに霞んでいて、静けさとともに時間がゆったりと過ぎるのがわかる、時が止まったような島だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 日本の地名徳島県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2000年 日本の町並U別冊太陽 平凡社 江田修司 2003年 |
中村の町並 |
中村の町並 |
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出羽島の町並 |
出羽島の町並 |
出羽島の町並 |
出羽島の町並 |
出羽島の町並 |
出羽島の町並 |
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