辻町の江戸時代は祖谷山・井内谷への渓谷集落として、当地方の交通・商業の中心地として、また、吉野川には辻の浜と称された川湊が置かれ、市街を形成していた。 江戸中期から刻み煙草の製造・販売で繁栄し、人口の集中も見られた。 江戸初期には井川村と称されていたが、万治2年(1659)に東井川村と西井川村に分村されたといい、当地は東井川村に属していた。ただ郷帳などの記録では江戸時代末まで井川村一村で見られることも多かった。 宝暦11年(1761)の巡見村々指出(三好郡志)には、東井川村とあり家数246・人数969とある。 「阿波志」では寛政年間(1789〜1801)の東井川村は317戸とあるが、西井川村は村名のみで戸数の記載がない。 当地の物産の刻み煙草については、享保頃(1716〜36)から小規模な手刻み屋が出現したと推測され、以後生産量が増大して行った。そして安永5年(1776)に当地の内田久米蔵が機械刻みの剪台を考案し大量生産が可能になった。 嘉永3年(1850)のものと推定される国産名葉刻製元名寄帳によると、辻の刻み煙草の製造人数28とある。三好郡志によると、中央部の辻町は市街の形状をなして商家400戸余りが立ち並び、水運・陸運ともに便とあり、家数626・人数2,741とある。物産は煙草・葉藍・清酒・味噌・醤油・鎌・鍬などがあった。民業は農業153・商業235・工業23・雑業197。 明治24年の県統計によると、県下の刻み煙草製造業者は36戸あったが、うち24戸は池田町、井川村は11戸で他の一戸は美馬郡にあった。そして明治31年の葉煙草専売法が実施され、当地方の煙草産業は壊滅してしまった。 養蚕も室町期に始まり、文化年間(1804〜18)には桑園が広がり本格的な養蚕地帯となった。明治になり専業の養蚕農家も現れ活況を呈したが、第一次世界大戦の終了と共に繭価が大暴落して当地方も大打撃をうけた。 今古い町並は井内谷川の出口から国道192号線にかけての旧道沿いに展開している。江戸期から明治期にかけて刻み煙草で繁栄した町並は約1km続き、卯建を備えた重厚な商家建物が続いている。卯建は単層の卯建で袖卯建に近いものもあり、脇町や貞光の卯建とは異なり、三好市池田町の卯建と同じような感じの卯建だった。切り妻造り平入り、中2階建てで卯建を備え、虫籠窓を残した家屋も多く見られたが、千本格子を備えた家屋は見なかったように思う。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 香川県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989 |
井川町辻の町並み |
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