鎌倉時代から二つの島は、対岸の香川郡笠居郷に本拠を置く豪族香西氏の領地であった。室町時代末期には、香西の一族高原氏の所有となり、豊臣秀吉の水軍となった。塩飽諸島・小豆島の船方に属し、朝鮮の役にも出陣した。 江戸時代になって、寛文12年(1672)幕府の直轄地となり、島民は海上権を奪われて、もっぱら農業と漁業で暮らしを支えた。明治年間になると女木・男木は合わせて雌雄島村と呼ばれ、半農半漁の生活が続いた。昭和35年に念願の電気がひかれ、ランプの生活に別れを告げた。 女木島の戸数は延宝7年(1679)84軒、明和7年(1770)の人数は977人であった。男木島の戸数は延享3年(1746)124軒、幕末ころには150軒であって、明治8年の戸数は124軒・人数518人であった。 両島とも水のないのが悩みの種だったが、今では高松市から海底パイプで水が送られ、離島の時代が終わったのである。女木島には東海岸の東浦と、西海岸の西浦の二つの集落がある。耕地は僅かで傾斜地を利用した階段耕作である。 男木島には西岸南部に一集落があるだけで傾斜地の階段状耕作と漁業を生業とすることは両島とも同じである。この二つの島には三つの集落があるが、町並みとして面白いのは東浦と男木である。東浦が同じ島にありながら西浦集落と、その町並み景観を甚だしく異にしているのは、冬季に受ける卓越風が原因である。 一般に瀬戸内海の季節風は西から吹いてくるのだが、それが女木島南部の、さして高くない山頂に当たると、特異な現象を生じ、方向を変えて東浦集落に吹き下ろしてくるのである。地元の人たちが「オトシ」と呼んでいるこの烈風は、潮霧を交えて南から吹きすさぶ。海に南面する東浦の家々は、もろにこの風を受けて戦わねばならない。 平地が少なく、飲料水の井戸もここにしかなくては、人々は風を避けて移動することができない。そこで「オーテ」と呼ばれる城壁を思わせる防風防潮石垣が、海岸線に沿って築かれることになる。高さ4.2m、長さ32m、幅1.25mに及ぶものもあるが、一般に高さ3m〜4mのもの、長さは15mから20mのものが多い。「オーテ」は今はその裾をコンクリートの防潮海岸道路で固められているが、もとは波浪に洗われていた。 材質は白っぽい花崗岩と黒っぽい安山岩が混じり積まれたものであり、何代にもわたって修理が加えれれたことを物語っている。安山岩は女木島のものであるが、花崗岩は近くの直島や庵治から運んだものである。 重い石を島外から調達してまでも、オーテは築かねばならなかったのである。 男木島には埋め立てた港湾施設の土地以外、平地が全くない。船から見る男木島の風景は山に家々がへばりついているようだ。だから集落の中の山へ向っての横の小道の片側は必ず高い石垣になっている。縦の道は急坂でときには階段になっている。積まれている石垣の石はこの島で、畑を開墾したときに出た自然石で黒っぽい安山岩が多い。 昔は道がすべて石畳であったが、今は舗装かコンクリートになってしまって、風情がなくなったと、島の古老が話していた。 島の道は全て小道で人がやっとすれ違える程度の幅しかない。その中でも比較的幅の広いのは、男木港から男木漁港に通じる小道であるが、これとて軽自動車がやっと通れる程度で、軽自動車が来ると人も荷物もどこかの空地に逃げ込まねば、軽自動車が通らない。これがメイン道路であるから、島にある僅かな軽自動車もナンバープレートがない。役所は道がないと判断しているようだ。この集落ではてくてく歩くしかなく、荷物を移動さすのは1輪車と農耕用のトラクターに小さな荷物運搬車をつけた車である。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 書名不明/出版社不明 女木島・男木島の町並み 明治大学教授神代雄一郎 発行年不明 町並み・家並み事典 東京堂出版 吉田桂二 昭和61年 |
女木島のオーテ |
女木島のオーテ |
男木島の小道 |
女木島のオーテ |
男木島の小道 |
男木島の小道 |