南斎院(みなさや)村は斎院村から北斎院村と南斎院村に分れたもので、その時期は明確でないが、元禄13年(1700)の領分附伊予国村浦記にも天保郷帳(1834)にも単に斎院村となっているが、明治5年の松山領里正鑑では南北二村に分れているからこの間に分村されたのであろう。 南斎院村は明治初めの「温泉郡地誌」によると地形平坦、灌漑に不便で旱損がち、地味は悪いとあり、家数144・人数574、牛34・馬33とある。 長屋門の農村集落として特異な存在の南斎院を訪ねたが、どうしてこのような立派な長屋門の農家が連なるのか判らない。その長屋家から出てこられた年配の方に話しかけると水のみ百姓と仰っていたが、どうしてどうしてこれだけの家屋敷を維持していくのは大変な費用がかかる。 普通、長屋門のある家は格式が高い家である。明治期に入り自由に出来るようになたとはいえ、これだけの長屋門や家屋敷を建築し維持するのは大変費用がかかる筈である。 そして連なった長屋門の隣の家もその隣も同じ姓の表札があがっている。そのことを問うと、かっては親戚だったかもしれませんねと、今は親戚付き合いはないとの返事だった。 どうしてこうも立派な長屋門の連なる農村集落がここにあるのか。確かにこの松山市周辺では長屋門を構えた農家が点在はするが、これほど顕著に連なってはいない。 かってこの地が在郷町として栄えたこともないし、宿場町でも城下町でもない。松山城下に近い一寒村に過ぎなかった。 大名屋敷にも匹敵する長屋門を構えた農家、それも一軒や二軒でなく、連続して長屋門が続く。全て同じ姓の表札が挙がっているが、親戚付き合いはしていないと不思議な長屋門が連なる農村集落だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 愛媛県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 |
南斎院町の長屋門 |
南斎院町の長屋門の町並み |
南斎院町の長屋門 |
南斎院町の町並み |
南斎院町の長屋門の町並み |
南斎院町の町並み |
南斎院町の長屋門の町並み |
南斎院町の長屋門の町並み |