西讃の中心都市の丸亀は、城下町・港町、又近代には軍都として発展した。 天正15年(1587)生駒親正が讃岐17万石に封じられ、翌年高松城を築城し居城とした。その後4代高俊の寛永17年(1640)生駒騒動によって転封され、伊予三藩主の分治時代をへて、丸亀・高松の二藩時代に入る。寛永18年(1641)山崎家治が丸亀に入り丸亀藩が成立した。山崎氏は3代17年間在封したが断絶。万治元年(1658)京極高知が入封、以来7代朗徹の明治維新まで212年間、京極氏が丸亀藩主として在封した。 慶長2年(1597)生駒親正は西讃の本拠として丸亀城を築き、子の一正の居城としたが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。丸亀藩の成立により寛永19年(1642)山崎家治が城の再建と城下町の整備に着手した。後を継いだ京極氏により万治3年(1660)天守閣が完成し、城下町も拡大整備されて、京極氏初期に城及び城下町は完成された。 外郭内は全て武家屋敷地で、城の北側に北から一番丁・二番丁・三番丁・四番丁、東側に五番丁、西側に六番丁、南側に北から七番丁・八番丁・九番丁・十番丁があり、町人町は外郭外に置かれ、その殆どが城の北側にあった。 城下町の建設は慶長6年(1601)の御供所村と宇多津村平山から住民を移住させて、御供所町・北平山町・西平山町を形成したことに始まる。万治年間(1658〜61)の城下図には生駒氏時代に形成されたと思われる城下町が記され、前の三町の他に横町・塩飽町・上南条町・下南条町と浜町辺りが描かれている。京極氏時代初期の城下の様子を示す元禄10年(1697)の城下図には、縦横に巡らされた通りと人家で埋め尽くされている。 貞享4年(1686)の町人地の人数は8,567、元禄3年(1690)の家数969。「西讃府志」では家数2,562・人数8,749。 山崎・京極氏時代の城下町形成にともない商工業が発達し、西讃岐経済の中心地として発展し、更に江戸時代後期には金毘羅参詣の隆盛により繁栄した。延享年間(1744〜48)には大坂〜丸亀間に金毘羅船の定期航路も開設されて、金毘羅街道(丸亀街道)が人の波で続いた。丸亀港に着いた参詣客は丸亀城下の西寄りの道を通り、城下の出口で、番所が置かれた中府口に着き、金毘羅に向うのが普通だった。 丸亀港は金毘羅参詣とともに発展したが、その他にも西讃の物資の積出港でもあった。 天明年間(1781〜89)に江戸屋敷の下級武士の内職として作られはじめた「うちわ」は金毘羅みやげとして販売され、それが今に繋がっている丸亀のうちわ産業である。軍都としての丸亀は明治7年に高松営所(兵営)が丸亀に移され、丸亀営所が創設されたことにより、丸亀城周辺がその用地に当てられ、第2次大戦終結まで70年間あまりに亘って軍都として繁栄した。 古い町並みは旧丸亀街道に沿って展開していた。平入り切り妻造りで中2階建て、虫籠窓を残した伝統的様式の商家の建物も健在であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和60年 香川県の地名 平凡社 下中 弘 1989 香川県の歴史散歩 山川出版社 香川県歴史散歩編纂委員会 1996 |
六番丁の町並 |
本町の町並 |
本町の町並 |
本町の町並 |
南条町の町並 |
南条町の町並 |
中府町3丁目の町並 |
中府町5丁目の町並 |
中府町5丁目の町並 |