赤岡町は町の北東より南流した香宗川が向きを西に変え、町域中央部を西流、再び向きを東に変えて土佐湾に流れ込む。町並みは西流する香宗川の南側浜堤上に商家や漁家が並び街区を形成している。 赤岡の江戸時代は土佐藩領で、在郷町として発展していた。 「土佐州郡志」によれば香宗郷に属し、家数220余で村の規模は東西18町・南北10町余で地内に本町・新町の二筋の町がある。また赤岡浦については別に家数245・人数1,036、船24とある。寛保3年(1743)の郷村帳では家数408・人数1,934、牛12、馬54、船舶9とある。 赤岡が在郷町として発展したのは、寛文3年(1663)の寛文改替以後のこととされる。諸統制の緩和、商品流通の進展、そして城下の統制圏・流通圏外だったが、香宗川流域・物部川上流域も商圏にしていたことによるようだ。 上方へ往来する廻船問屋の活動も活発で、城下の灯油価格を左右し、油・雑穀類の下り荷では高知商人を脅かしていた。港は香宗川の川港がその役割を果たし、そのあたりに問屋や商家が多く、港町と在郷町としての機能を持っていた。 産業としては製塩・漁業・竹細工の他、酒造・紺屋・綿織物が発達していた。特に綿織物は赤岡縞として特産となった。漆器の加工業も発達していた。 明治〜昭和初期にかけても政治・経済・文化・交通の中心として発達し、在郷町として周辺の村々の需要に応じていた。明治33年には赤岡銀行が設立され、大正6年には赤岡織布が設置された。 今古い町並みは海岸近くを通る国道55号線の北、旧土佐街道筋とその南側と北側の通り辺りに展開している。中2階建て切り妻造り平入りの商家の建物が連なる光景は、かって繁栄していた在郷町の証でもある。切り妻造りの家屋の妻面の水切り瓦が見られるのも、南国土佐の特徴で3段・4段と水切り瓦が備わっていた。 赤岡は絵金(弘瀬洞意)の描いた極彩色の芝居絵でも有名だが、このことは主題と異なり割愛させて頂きます。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 日本の地名高知県 平凡社 下中邦彦 1983年 |
赤岡町の町並み |
赤岡町の町並み |
赤岡町の町並み |
赤岡町の町並み |
赤岡町の町並み |
赤岡町の町並み |
赤岡町の町並み |
赤岡町の町並み |