香美市土佐山田町東本町・西本町辺りは、物部川中流域右岸に位置し、段丘上の台地部である。 近世始めまで鏡野・山田野と云われた原野であったが、執政野中兼山により新田が正保年間(1644〜48)に開墾され、野地村と呼ばれた。元禄地払帳によると野地村の新田高2,728石余で、幕末の新田高は中野村と合わせて2,918石余。寛保郷帳によると家数465・人数1,841、馬115・牛46とある。 そして近世初頭に新田として開墾された野地村の中央台地上に形成された在郷町が山田野地町と呼ばれ、現在の香美市土佐山田町の市街地あたる所である。 町の南方を西南流する舟入川の完成により、高知城下までの物資輸送が可能になると、物部川上流域や本山郷(現本山町)・豊永郷(現大豊町)方面の物資が当町に集散され、当地方の交易の中心地となった。韮生(にろう)往還(現土佐中街道)は赤岡から山田野地町を通り、神母ノ木から物部川上流域へ通じる道で、陸路・川路での交易が盛んに行われた。 水陸による交易が行われ商業活動が盛んになり、藩指定の国産問屋などができた。東町の大津屋、西町の佐野屋が知られている。また、定期市も開かれ、幕末には西町三丁が三の日の六斎市・東町三丁が六の日の六斎市・中町三丁が八の日に六斎市が開かれていた。 明治9年の家数837・人数3,741とあり、明治12年には農業404、大工・鍛冶・紺屋・馬具師などの工業56、酒造・米穀・反物などの商業237であった。 今古い町並は、旧韮生往還に沿って東西約1km程に展開するが、中でも土佐山田町東本町4〜5丁目、土佐山田町西本町4〜5丁目辺りに伝統的な家屋が連なる。その間の東本町3丁目〜西本町3丁目間もかっては古い町並が展開していただろうが、町の中心だったので開発が進み、古い家屋が余り残っておらないが、町筋の両端に古い町並を構成する水切り瓦のある伝統的な様式の家屋が残っていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 日本の地名高知県 平凡社 下中邦彦 1983 |
土佐山田町東本町2丁目の町並 |
土佐山田町東本町5丁目の町並 |
土佐山田町東本町5丁目の町並 |
土佐山田町東本町5丁目の町並 |
土佐山田町東本町5丁目の町並 |
土佐山田町東本町5丁目の町並 |
土佐山田町西本町3丁目の町並 |
土佐山田町西本町4丁目の町並 |
土佐山田町西本町4丁目の町並 |
土佐山田町西本町5丁目の町並 |