海部町鞆浦の町並み 
鞆浦
地図


鞆浦の町並
 海部川河口の南岸、愛宕山の北麓に鞆浦の漁業集落の鞆浦がある。文安2年(1445)の「兵庫北関入船納帳」に当地の船が兵庫北関に同年3月から9月にかけて11回入港している記載があるほど、早くから海上交通の要衝として知られていた。
文化12年(1815)完成の「阿波志」では家数291・人数1,099とあり、多いに繁栄していたと思われる。当地には海部氏が拠った海部城(鞆城)があり、同城は天正3年(1575)に落城したが、天正13年(1585)蜂須賀家政が修築し、阿波9城の一つとした。
元和元年(1615)の一国一城令により廃城となったが、寛政11年(1799)海部郡代役所(陣屋)が置かれたが、それ以前に海部城山東麓、山下に代官所あったという。この海部郡代役所(陣屋)が文化4年(1807)に日和佐に移されてからは、行政の中心地でなくなったが、港町としては賑わっていた。その他に、正保元年(1644)鞆浦の波止崎に川口番所が設置され、また手倉に遠見番所が置かれ、キリシタン制札・諸廻船定書が揚げられ、人や俵物の出入を改めていた。
江戸中期以降は大坂・兵庫・堺・徳島などの港から200から500石船で、米・酒・塩・砂糖・布類・雑貨などを運び、鞆からは木炭・木楮・茶・和紙・椎茸・などを積み出した。
このように鞆浦は戦国期から江戸期にかけて、海部郡の軍事・行政・経済および文化の中心地として重要な位置を占ていた。
今、鞆浦を歩くと当時の面影か、普通の漁業集落と異なり、間口の広い商家風の重厚な建物が点在し、かって商業活動の中心地だったことが理解できる。
太平洋に面した海岸にあるためか、家屋には板壁が多く、漆喰は殆ど見られないのは当然だろうと思う。町並は規則正しく町割りされたようで、漁村らしくない町割りだが、家々を見ると隣同士が接した漁師町独特の光景が見られる。沿岸漁業が中心のようで、ブリ・イワシ・アジ・スズキ・ヒラメ・イカをはじめカツオ・マグロの一本釣りも盛んだそうだ。
町並み指数 60
参考文献    
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和61年
  日本の地名 徳島県  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  2000年
  日本の町並U別冊太陽  平凡社  湯原公浩  2003年
  徳島県の歴史散歩  山川出版社  湯浅良幸  1995年  

鞆浦の町並

鞆浦の町並

鞆浦の町並

鞆浦の町並

鞆浦の町並

鞆浦の町並

鞆浦の町並

鞆浦の町並

鞆浦の町並

鞆浦の町並
古い町並みへ戻る