訪ねた現湊町・灘町・三島町等は「郡中」と呼ばれる松山藩との代替地で大洲藩領であった。 この辺りは牛飼原又は竿先原と呼ばれる海沿いの荒地であった。寛永12年(1635)の替地で松山藩領から大洲藩領となったあと、藩主加藤泰興はこの地に漁師町とするため、家10軒を取り立てたが、次第に困窮して3軒になってしまった。そこで上灘村の宮内九右衛門・清兵衛の兄弟が開発を願い出て、この地に居住し努力を重ねて開発したものと云う。そして一族縁者をはじめとして次第にこの地に居住する者が増え次第に町並みを形成していった。藩主加藤泰興もこれを賞美し諸役御免地として繁栄のもとを築いた。 前述の上灘村の宮内九右衛門・清兵衛の兄弟が住んだのがこの灘町辺りで、次第に人家も増え寛文7年(1667)の「西海巡見志」に家数53とあるが、宝暦5年(1755)の玉井家文書では家数198・人数778とある。 藩主加藤泰興はこの地を漁師町とするため、家10軒を取り立てたのが3軒になってしまったのがこの湊町辺りである。その後、上灘村の網元の四郎左衛門の父がこの地に移住し、網子の者が増え、領内何処でも網引きが許され、その上網は諸役運上まで免除されたとある。寛文7年(1667)の「西海巡見志」には家数31とあるが、宝暦5年(1755)の玉井家文書によると家数177・人数827とある。 そして両町とも寛政8年(1796)城下町に準ぜられ営業の制限がなくなり大いに繁栄した。 米湊(こみなと)は米の積み出し港として栄えていたが、風波が強く、砂浜海岸であるため発展が望めなかったので、灘町は築港の許可を得て、20年の歳月をかけて天保6年(1835)に「万安港」を完成させた。 そして大洲藩領内の米は大坂に積み出され、綿実を積んで船が盛んに入るようになりこの地の発展に大きく寄与した。 今、古い町並みは旧大洲街道沿いの郡中に展開し、北から湊町・灘町・三島町へと続いている。伝統的様式の家屋で切り妻造り平入り、漆喰塗り込めの虫籠窓を備えた家が連なっているのは、かっての繁栄の証でしょう。でも所々虫食い状態で空き地になっている所もあるのは、今の時期ある程度は仕方ない現象と思う。 今この町は削り節の町として有名で、カツオパックの生産で急成長を遂げている。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 愛媛県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 愛媛県の歴史散歩 山川出版社 愛媛県高等学校教育研究会 1996年 |
湊町の町並み |
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