高知市の東側の町が伊野町で、土佐和紙で名が知られている。戦国時代の伊野地方は短い歳月の間に吉良氏、本山氏から長宗我部氏にかわり、天正3年(1575)長宗我部元親によって土佐が統一された。 それ以後10年かけた天正13年(1585)に長宗我部元親は四国全土を統一するが、同年の7月に豊臣秀吉の四国平定により元親は降伏し、土佐のみ領地として与えられた。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、徳川家康により遠州(静岡県)から山内一豊が国主となって入国した。 町並みについては、長宗我部検地の段階では伊野村に商業集落はまだ無かったようである。 伊野村の商業集落は山内一豊の後を受けた山内忠義の家臣、野中兼山によっての大規模な土木工事で、仁淀川沿いに治水用の堤防が築かれて、水害の危険が緩和された椙本神社の門前に近い七丁が芝に芝町として形成される。元録年間の初年頃(1690)であろうと推測されている。 在郷町として近世後期に発展するのは、仁淀川水運の発達により上流の物資が谷の河港に荷揚げされ、椙本神社上手の問屋坂に並ぶ商人によって取引されるようになったからである。 伊野は土佐和紙の発祥の地として有名である。長宗我部元親の妹養甫尼に招かれ、成山(伊野町)にきた安芸城主安芸国虎の子安芸三郎左衛門家友は、慶長の頃、新之丞という旅人から紙生産の技法を伝授された。 そして山内一豊の入国の際には七色紙の和紙を献上し、御用紙すきの元締めとなっている。その後伊野は土佐藩御用紙すき地として24軒の業者が選ばれ、幕府への献上紙や御用紙すきを命ぜられた。自然に紙を取扱う商人の成長は目覚しく、紙商人が成長したほか、屋号を持った多くの商人を誕生させ成長させた。森下家文章には130の屋号が記載されている。これらの商人の代表は高岡屋(野村家)である。 その豪商の「高岡屋(野村家)」は幕末、本家を中心に十軒あったという。いずれも本通りに堂々と土蔵造りを誇っていた。高岡屋が全盛を誇ったのは、三代万右衛門と四代万右衛門であって、藩からの多額の用銀に応じている。 江戸時代の市街部は、「土佐国吾川郡伊野村村誌」(明治15年編纂)によれば、市街部の基幹としては、まず谷町−新町間長さ8町(900m)に及ぶ本通りがあり、さらにそれより分岐した三つの横町があった。現在の信用金庫付近、公園町、大和町付近である。この大通を中心とした形態で伊野の市街地は明治を迎えたのである。したがって現在と比較すれば、ほぼその北西部に当たるわけである。 明治12年の「土佐国吾川郡伊野村村誌」によると総戸数810戸であり、その内紙漉き253戸と極めて多く、諸卸商43戸、諸小売商61戸と比較すると、紙漉きが異常に多い。これは明治以後束縛が解けて、紙漉き、紙問屋が急に成長したもののようだ。 今も伊野町の問屋坂から西町、元町、本町にかけての旧市街地には、昔の面影を残す紙問屋の商家や漆喰壁の民家が点在している。豪壮な商家の町並みに、紙の町として発展した栄華の跡を偲ぶことができる。現在では日本一古くなった路面電車が、明治40年にいち早く伊野町まで開通しとのも、和紙などの物資を高知港に運ぶためでもあった。 伊野町史 伊野町 伊野町史編纂委員会 高知県の歴史散歩 山川出版社 高知県高等学校教育研究会 1996年 四国小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1999年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 |
西町の町並み |
問屋坂の町並み |
西町の町並み |
問屋坂の町並み |
問屋坂の町並み |
和紙の商家の土居家 |