今治市吉海町津島は瀬戸内海中央部、しまなみ海道が通る大島西部に位置する。 江戸期は今治藩領。村高は「慶安郷村数帳」では140石余、「元禄村浦記」でも140石余、「天保郷帳」147石余、「旧高旧領」103石余。 戦国期には城砦があり、田房隼人正が居城したが、天正13年(1585)の落城で、一族は滅亡し、島民は逃げ去り無人島になった。その後、大三島から村上彦右衛門、続いて椋名から福永氏、井之口から藤沢氏、黒河村から黒川氏、大島の仁江村から村上七郎兵衛らが次々と入植し、荒地や山林を切り開いた。 貞享元年には(1684)家数31、寛政4年に(1792)家数65となり、文政12年(1829)の家数70、明治4年の家数104・人数462とある。明治44年の家数129とあり、大正4年家数121、昭和25年家数130・人数605、昭和42年家数107・人数391とある。 島は耕地に乏しく、漁業も振るわないので、船乘りとして出稼ぎや、海運業も盛んであった。氏神の奉納された天保期の絵馬には大型帆船の絵が描かれている。明治13年の所有商船数は22艘である。 大正12年津島運輸株式会社が発足。昭和10年頃には機帆船30隻を所有。昭和42年では船主29名、船員62名を数えた。 農業は果樹と蔬菜が盛んで、特産のイチジクは明治中期から栽培され、昭和30年代は柑橘が伸びて、イチジクの作付けが減少している。 さて、現在の状況ですが、大きな集落を形成していて、古い集落形態をそのまま残していて、見栄えのする集落が残っているが、無住の家屋が多く哀れを誘う集落になっていた。限界集落と云って良いでしょう。今でも100軒以上の家屋が建っているて、多い時には600人以上の人が住んでいた痕跡は十分に残っているが、集落で出会った方に聞くと、今は13名が住む集落になってしまったと嘆かれていました。 集落は漁業集落とは様相が異なり、比較的大きな家屋が、ゆったりと配置されていて、農山村の集落そのものの様子だった 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和56年 愛媛県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 |
吉海町津島の町並 |
船板が使われていた家屋 |
吉海町津島の町並 |
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